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連載小説「心の雛・続」 第六話 思い出の使い方

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 憧れの医師がいる。
 その方を僕は特別な敬意を込めて「師匠」と呼ばせていただいている。
 かといって彼は僕のことを「弟子」とは呼ばず、「おい、こころ!」「心ちゃーん!」「心センセ!」などと野太い声でガハガハ笑って呼んでいた。


「おぉい! 心! 後ろに乗れ!」
 乱暴な物言いで師匠が僕にバイクの後ろ部分を指さした。師匠の愛車、マットな質感のダークグレイの大型バイクは、僕が後ろに乗っても走行に支障が出ないモデルらしかった。

「えっ? 僕はバイクに乗ったことないですが……」
「いいんだよ! まずはジャケット買いに行くぞ!」

 師匠はどこに隠し持っていたのか、ポーンと僕用のヘルメットを投げ渡してきた。球技が超絶苦手な自分。細心の注意を払って受け取った。師匠のメットはこれまたマットな質感の黒色、僕のはパールがかった白色。被ったことも触ったこともないそのヘルメットを、言われるがままにどうにか装着し、この日僕は初めてバイクという乗り物を体験した。


「ウェハハハハ!!! すげぇーーー、風、気持ちいいなぁーーー」

 最寄りの専門店でバイクジャケットを購入し、僕は今、必死で師匠の腰にしがみついていた。ちょっと怖かった。

「おーい! 心! 生きてるかっ⁉」
「い……生きてます! ……スピードが、すごいですね……!」

 貧弱な体格の僕と正反対の師匠。胸板も分厚いし腹も筋肉質で大木の幹を思わせる。何より声が大きい。走行音にも負けないほどの声量で師匠が笑いながらバイクを走らせていた。
 ドドドドド……!!! 僕には轟音と思える音を立てながら二人は風を切る。
 同じ心の医者である以外に似たところはない僕と師匠は、この日、ちょっと遠出をした。


 海岸沿いの道を爆走する。ヘルメットとジャケット、手袋もつけているので風はあまり感じにくいが、何より景色が美しいと思った。

 生まれて初めて見る海だった。
 水平線というものを僕は目に焼き付けた。

 世界というものはこんなにも美しかったのか……。

 あまりにも語彙力がなくて悲しくなるが、僕はこの日、空の青と海の青が違うということを知った。五感を通して自然という存在に触れた。普段の僕は人間の感情が内に流れ込んでくる。
 この日だけは、自然が流れてきた。

 座面から尻ごしに伝わる振動も、師匠の笑い声も、いろんな青さも、僕は忘れたことはない。一度もない。そういう、過去の思い出。

「おめぇ、気分転換ヘッタクソだよな!」
 コンビニで買った珈琲をぐびりと飲んで、師匠が言った。本当にその通りだった。

「師匠は上手ですね」
「あたりまえよ! 心が病みまくった患者を相手にするんだ、逃げ道はいくらでも用意しとかないとやってられねぇよ!」
「……そうですね」

 眩しいほどの師匠から目を背けると、なんとそのはず。彼の背中には落ちかけた赤みの太陽があって、後光が差していたのだ。
 僕は座る位置をずらした。

「師匠、よくバイクで遠出をするんですか?」
「月イチくらいだな。クソ忙しすぎて遠出もなかなかできねぇ」
「患者様たちが絶えませんからね……」
「この国はおかしいぜ。皆、ちゃんと目の前を見てるのか? っていうくらい、誰も彼もが過去と未来ばかりを見ている。目の前の飯を食いながら、頭では別のことを考えているんだぜ? 何食ってるか覚えてねぇんじゃないのかって、俺はいつも思ってるぞ」

 僕は珈琲の茶色い紙コップを両手で包み込む。じんわりと温かさが手に伝わってくる。

 誰もが過去と未来ばかりを見ている——……。

 ならば、僕は今、どこを向いているのだろうか。


 師匠が陽光に照らされて燃えるような色合いに染まっている。ヘルメットをはずしているため口髭をたくわえた師匠が眉間にシワを寄せているのがよく見えた。視線の先はアスファルトの……雑草か?
 黒黒とした固いアスファルトでも力強く生えている草。

 ぬるく磯臭いと思わせる香りとともに、師匠との初めてのバイク遠出の記憶が一枚僕の中に舞い降りた。


 次の遠出は岩だった。ロッククライミングと言うらしい。腕力のない僕には経験しないであろう場所だったが、せり上がった壁に小さな岩を取り付けたその施設にて、僕は下から登っていく師匠を応援していた。

 てっきり僕も登れと言われるのかと思っていたので拍子抜けした。

 他の施設利用者たちの喧騒、真剣な表情、滴る汗、室内の独特の空気……。

 不思議と酔わなかった。僕は感受性が高いため、人が多い場所に長くいると体調不良に陥りやすい性質を持っていた。

「師匠! あと……、あと少しです!」
「おうよ!!!」

 日焼けした師匠の太い腕の筋肉が盛り上がる。
 今いる自分の位置から手の届く範囲で、一番適した岩を探し出していく。
 一歩ずつ、確実に高みを目指す。

 何をするでもなく立っていた、新しい記憶の一枚。


 それから山へ、川へ、釣りに。そういうアウトドア系だけではなく、ただひたすらケーブルカーやロープウェイに乗るだけという余暇という余暇を、僕と師匠は二人で記憶を刻み続けた。

 どれもこれも僕一人ではしないようなことだった。


「心は、どう思う?」

 突然、詩人の師匠が僕に問いかけた。

「辛い過去で心が病み身体が不調になる」
「突然ですね」
「いいから聞けっ。その不調ってのは、本当に不調なんだろうか?」

 僕は首を傾げる。僕たちにとっては当たり前過ぎて、悩む余地などない。

「身体が不調ではない場合も多分にあります。休んだり眠れば回復するので取り立てて気にする必要がない場合もたくさんあります」
「そうだ」
「それと、過去だけではなくて未来でも心は病みます」

 僕が即答すれば、師匠も頷く。

「そうだ。だからな、心。大事なことを忘れんな。

 大事なのは『思い出の使い方』だ。

 後ろ向きなことばかりに頭使うんじゃなくて、
 楽しい過去で心を守り強くする、
 嬉しい未来で心を眺め前に進む、
 そういう発想の転換っていうのも、
 人生にはどうしても必要なことだってよ」

 ぴゅうと風に煽られながら、師匠がニィっと笑って言った。
 僕はその表情も思い出に重ねる。
 今は必要がなくても、遠い先に必要になるかもしれない。

 師匠との何気ない出来事も思い出に重ねていって良かったと心から思う。

 彼とはもう会うことができない。二度と。

 大丈夫、僕は思い出の使い方を間違えるわけにはいかない。

 大丈夫。
 きっと、大丈夫。

 過去を見ているかもしれないけれど、使い方を間違えてはいない。

 これは師匠からの僕へのプレゼント。
 僕には繋げていかなくてはならない想いがあるから、今ここで立ち止まるわけにはいかない。




 パタリと乾いた音を立ててノートを閉じた。
 病院兼自宅(居室は二階だ)のこじんまりとした自室に僕はいた。
 静謐なこの空間には、秋の虫の音が小さく響いている他、すぅすぅと安らかに眠るひなの呼吸音だけが聴こえている。師匠と出会って、師匠と過ごし、師匠と別れて、それから雛と出会った。さらに年月が経っていた。

 ここ何回かのR様の診察後は僕の体調不良は出なかった。前までは診察が終わるごとに嘔吐していたので、雛にはかなり心配をかけさせてしまった。時間が解決することと理解していたのは己だけで、側にいた雛はやっぱり見ていて不安に思うのだろう。

 師匠から言われた言の葉をまとめたのがこのノートだ。
『師匠語録』
 僕は指のひらでそっと撫でる。ノートを開けばそこからまるで彼の笑い声が聴こえてきそうなほど、乱雑にまとめた文字からは師匠らしさが滲み出ている。

 長年自分の性質と付き合ってきた。人に触れると相手の「感情」がうちに流れ込んでくる、僕の性質。言葉では説明できず、自分の気持ちではないモノが無遠慮に流れてくるので、幼い頃の僕はそれでしょっちゅう気絶していた。人と触れ合うことが怖く、触れた時に負の感情に飲み込まれることを恐れていた。

 嘔吐は、身体の正常な反応だと考えている。強がりではない。雛は、僕が強がって無理に元気なふりをしていると思っているみたいだけれど、本当はそうではない。ほんの一時的なものなのだ。
 ……と、体調不良をそう捉えるようになるまでにかなりの時間を要した。昔は、心の不調からくる吐き気は我慢をしなくてはならないと考えていた。ずっと我慢をしながら街で医者を続けてきたが、ある時限界を感じてしまった。

 うちに流れ込んだ負の感情——今回の場合はR様の出口を失った深い悔恨、他人との比較による嫉妬、不平不満など——を外に排出しようとしている反応というだけだ。

 触れた相手の「感情」が分かるということは、相手の治り具合が分かるということだった。逆転の発想をすれば、僕のこの性質はつまり、まだちょっと眠れなくて……と患者様が言えば、眠りの信号と相手の意思の伝達反応を整えればいい。
 僕が振り回されてきた性質のおかげで、心の病に活かすことができた。


 羽織っていた衣類をイスに掛け、寝る支度を始めた。

 今日の感謝の出来事を三つ思い浮かべる。
 耳をすまして虫の音を意識的に聴いてみる。
 両手は温かいだろうか。
 まぶたを閉じれば眠気を感じられるだろうか。

 自分流の心の整え方を人はいつ自覚するのだろう?

 僕は「人は人、自分は自分」と小さく呟いて、それから大きく深呼吸をして、快適な寝具に横たわった。
 どの行動も明日への『整』に繋がっていく。
 『整』になれば『心がフラット』になる……こればかりは、体感してみないと伝わらない。

 枕にゆったりと頭を抱かれ、僕は流れるように眠りへと誘われる。



(つづく)


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