Take-11:映画『第三の男(1949)』は面白かったのか?──著名人たちが褒め称える名作。自分の正直な気持ちは?──
女性にとって『第一の男』が本命だとすれば、『第二の男』が愛人あたりで『第三の男』はすなわちどーでもいい男といったところだろーか?
そういった意味でなら私は『第三の男』をひたすら演じ続けている自信がある。もはやライフワークといっても差し支えないくらいだ。
皆様よき映画ライフをお過ごしでしょうか? N市をねぐらとする野良猫、ペイザンヌです。
今回は少し冒険してみようかと思っております。 怖いな〜 ……なんか。
数ある映画の中でも超名作と呼ばれております、この『第三の男』。オールタイムベストなんかでもいまだに常に上位にありますやね。
え〜
世の中には向き不向きがあります。
得手不得手があります。
感性には個人差があり、時差もあります。今日わからなくても明日わかることもあります。
『第三の男』は評論家のサヨナラおじさまこと故淀川長治先生ももちろん素晴らしいと言っておりますし、かの村上春樹先生も絶賛しております。しかしどうしてもわからぬものはわからんのだということもあるのです。
彼らの真似をして絶賛するフリもできますが、そんなことをしても私は彼らになることなどできません。
そんな前置きをしておきつつ……てゆーか、まあ、ここまで言えばだいたいアタリはつくことでしょう。つまり、なんとゆーかですね……すごく言いづらいのですが、ゴニョゴニョ 。
イチ映画ファンとしてこういうマイノリティな意見は「ゴーマンかましてよかですか?」くらいの気合いがないと言いづらいわけで。
「さぁーぁっせん! この映画ですね、いっちども面白いと感じたことがないんです!!!」
あーあ、言~っちまった言っちまった。((((;゜Д゜)))
「きっとそう感じるのは、わしゃがまだオトナになってないからさっ」なんて、思いながらこれまでも二年に一回くらいは見直してたりしてきたんだけど…… 。
「そ……そろそろ、この面白さがわかるに違いないさ……だってさ、だってさ、こんなにもミンナに絶賛されてんだぜ? (;´Д`)」 くらいの気負いで今回も見直してみたんですけど……
いや、さんざん解説やら感想やら本で読んだりしてますよ。観覧車のシーン、ハリー・ライムの登場シーン、アドリブの鳩時計の台詞、下水道の逃走シーン、どこが凄くて素晴らしいのかは頭ではわかってるつもりなんですよ。つもりなんですが 、やっぱり、
(ノ-"-)ノ~┻━┻
「ぐぁぁぁっっ! コレ、ホントに面白いのかぁっ! 」
\(*`Д´)ノ
てな具合で。
なんかね、よくわからんのですよ。どこに感情移入していいのか?
登場人物の行動がいちいち意味不明じゃね? と。
(@_@;)
その中でも特にハテナなのが『そもそも、なぜ、ハリー・ライム(オーソン・ウェルズ)はマーチンス(ジョセフ・コットン)をウィーンに呼んだのか?』という一番重要なポイントがなんだかすごく曖昧な点。
絶賛する方々はこの部分をちゃんと納得できているんだろうか? と、いつも不思議に思ったりします。
《考察①》闇の仕事の片棒を担がせようとした。➡ならば最初から二流作家なんて人種を呼ぱなくても、もっと武骨で裏社会に精通した者を選べばいいんじゃないか?
《考察②》ちょっと抜けててお人好しな彼を選んでハメようとした。
➡だったら別に主人公をわざわざアメリカからウィーンへ呼ぶより、近場でそれなりのカモを選べばよかったんじゃないか?
彼でなければいけない理由がピンとこない。(その結果、やらなくてもいい第二の殺人まで誘発するハメになったわけだし、今度はその罪を彼に着せてしまおうトカ、もう本末転倒でわけわからん(@_@;))
《考察③》いろんな思惑はあれどハリーは裏社会の生活に少し疲れ、ノスタルジックな感覚で昔の友人である彼に”会いたかった“。
➡これこれ。そう、実はこれが一番しっくりくる気がします。が、もしそうだとすると今度は“それを表す場面があまりに少な過ぎる”気がしないでもない。
こじつけで、そう思うことはいくらでも可能なんですがね。もう、そうなると今度は「実はハリーには破滅願望があって親友であるマーチンスの手で止めをさしてほしかった」とか、そんなことまでこじつけられちゃうわけで。
見れば見るほどそんな疑問は蓄積していくばかり。
──なんでそんな危なっかしいってゆーかバレバレの偽装工作なんかするのさ? リスクばかり目立って必要性を感じないのだが……
トカ、
──なんでそんなあっさり裏切るさ?
トカ、
──なんで一般市民の主人公アナタが殺すさ?
しまいにゃ、
──てゆーか、おまえらホントに友情あったんか?
ハテナハテナハテナばっかしやん。
……いや、決してアラ探しトカでなくてですね、先程述べたようにそもそもストーリーの骨格部分が、それも結構太い部分が、粗すぎのような気がするんですよ。
見終わったあとも「このハリーライムという男、結局何がしたかったんねん?」と毎回思ってしまっている気がする。
そもそもそんな風にストーリー重視で見ているわしゃが悪いのか? 全部わしゃの未熟さゆえなのか? と、もはや相手があまりに巨大なため自分を卑下してしまうことでしか解決できぬくらいです。
まあ、原作のグレアム・グリーン氏はこれを『読ませる』ためでなく『見せる』ために書いたと言ってるらしいので、映像重視型なのは間違いないんですが。
ただ、ラストのあまりにも有名なシーン。墓地の並木道をヒロインのアリダ・ヴァリが主人公に一瞥もくれず歩き去ってゆく絵画のようなシーン。あれはやはり素晴らしいですね。
まるで、
(『ケンカ別れした彼女とやりなおしたい!』と思い立った男が彼女の最寄り駅で待ち伏せている。改札から出てくる彼女の姿。男は何か声をかけようと思うのだが、言葉が出てこない。そうこうしてるうち彼女は彼の存在に気付きつつもドシカトしてスルーしていく ーー)
みたいな、どこかで見かけたり、自分の身に起こったりしてもおかしくないような身近な共感を呼び起こします。
あの待っている間の時間がたまらないんですやね。彼女が遠くに見え、こちらに歩いてくる。
どうなるのか?
どうなるのか?
何かアクションがあるのか?
あ、もうすぐすれ違う……
あるよ。
あるだろ……
あるよね? 普通。
まさかの?
ここでまさかの?!
はい、ドシカトーーっ!
ど、どぅぇ……ええーーっ!
……みたいな。
やっぱり、彼女にとってこの主人公ジョセフ・コットンも私と同じく『第三の男(どーでもいい男)』なのだな、と。
(ー_ー;) ふぅ
さて、オーストリアの首都でそんなことがあった四年後、今度はイタリアの首都でこれと似たような感じの名ラストシーンが産まれることになります。その映画こそ、ドドン──
『ローマの休日(1953)』です。
「滞在中、一番思い出に残った場所は?」と記者に質問されて「ローマです」と王女が答えた後のあのロングカットですね。
ズラリと並んだ各国の記者たちに一人一人挨拶を交わしていくアン王女(ヘップバーンですね)。だんだんグレゴリー・ペックの順番に(こちら側、観客の方に)近付いてきます。
くるのか?
くるのか?
何かワンリアクションあるのか?
アップに切り替わるのか?
特別な台詞があるのか?
はい、なにもなし──!
普通ぅぅぅーーー
けれど、あの場合は「何も変化がない」「他の記者にかける笑顔、リアクションと同じ」であればあるほど、もうたまらんくらいにグッときてしまうんですよね。ああ、むしろ『ローマの休日』の方が観たくなってきたよ、わしゃ。
そんなラストシーンはともあれ、『第三の男』は、退廃したウィーンの街の描写、光と影の歪み、カメラが常に斜めを向いていて徐々に戻っていき次のカットへ繋がる演出、などといった技巧を賞賛する言葉はよく耳にするんですが、キャラの心情や内面をピックアップした感想は本でもブログでもあまり語られてない気がするんですよねぇ。
あまり、皆そこにはこだわらんのだろーか。う〜ん…… わからん。
(;´∀`)
やはりこの映画、侮どれん。
結論として、
『この映画をそこまでありがたがる人がおかしいのか、この映画の良さをわからんわしゃがアホなのかどっちかである』
後者でいいです。あ〜、いいさいいさ。
(ー_ー;)
とはいえ、そろそろアホは卒業したいので、また二年後に勝負かな、こりゃ。
ではまた次回に!
【映画のキャッチコピー】
●『敗残の都ウィーンに戦慄の犯罪と微妙な女ごころが映し出す人生の明暗』
●『敗残の都ウィーンに負う者と追われる者の凄惨な争闘! 微妙な女ごころと人間心理の深淵を描く』
【作品の舞台】
第二次世界大戦終戦(1945)直後のオーストリア、首都ウィーン(当時のウィーンは米英仏ソによる四分割統治下にあった)
【原題】
『The Third Man』
直訳でそのまま『第三の男、三番目の男』
《ちょっとあとがき》