ぺいじゅん

ヴィパッサナーやダンマに関することなど

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ヴィパッサナーやダンマに関することなど

最近の記事

自立するためには先に依存しなければならないし、 生まれるためには先に死ななければならないし、 解放されるためには、先に束縛されていなければならないのだ

    • 悟らないほうが不可能だ

      以前、某瞑想センターに行ったとき、そこで数ヶ月の長期滞在をしている方が、「このセンターの指導者の中に、ソーターパンナはいないと思う」と話していた。ソーターパンナとは、最初の涅槃を経験し、悟りの第一段階に到達した人のことだ。 なぜそう思ったのか尋ねると、どうも20人ほどの指導者が集まる年次集会に奉仕者として参加したとき、その指導者たちがおしゃべりに興じて、あらかじめ決められたスケジュールになかなか従わない様子を見たそうで、そんな当たり前のことさえできない人たちが、まさか悟って

      • 涅槃は無時間的なもの

        Xで興味深いポストを拝見した。 同時に、涅槃に関してウ・ジョーティカ師が言及している箇所を思い出した。 師がここで言おうとしているのは、煩悩の潜勢力の根絶についてであるから、その文脈からは外れることになるが、それを承知で、「涅槃は無時間的である」ということについて私の考えを書いてみる。 涅槃は、なぜ無時間的であると言われるのか? 阿羅漢の般涅槃は別として、悟った人々、つまり預流・一来・不還・そして肉体の死を迎える前の阿羅漢は、何度も涅槃を経験し得るが、涅槃の経験ののち、

        • 「やりのこし」①

          今日の夕方、いつものように坐っているとき、 40分ほど経ったあたりだろうか、 「やりのこし」という言葉が心に浮かんだ。 それは、心のより深い部分から沸いて出たもののように感じた。 「やりのこし」。 それは瞑想コース中にも、よく浮かぶ言葉だった。 「やりのこしのないように」 「徹底的に」 「最後まで」 誰に聞いたわけでもなく、 いつからか自発的に浮かぶようになったそれらの言葉に励みを受けながら、 心の浄化の道を進み続けてきた。 しかし、もしも本当に、 「やりのこしなく」

        自立するためには先に依存しなければならないし、 生まれるためには先に死ななければならないし、 解放されるためには、先に束縛されていなければならないのだ

          瞑想コースが近づくといつも、こころがすこし、波立ってくる。まるで無知が、まもなく消し去られてしまうであろうことを知っていて、それになんとか抗おうしているかのようだな、と思う。

          瞑想コースが近づくといつも、こころがすこし、波立ってくる。まるで無知が、まもなく消し去られてしまうであろうことを知っていて、それになんとか抗おうしているかのようだな、と思う。

          智慧の不利益

          瞑想にまつわるほとんどのことで私は恩恵を受けてきたけれど、 私が瞑想によって失ってしまったもの、私にとって瞑想のデメリットは何かあっただろうかという疑問が、ふと頭をかすめた。 そして次の瞬間に生じた思考が、 「ああ、私は、智慧を得る前の自分に戻ることができない。これはデメリットと言い得るかもしれない」と告げた。 それはつまり、瞑想修行のプロセスにおいて、そのように感じてしまうことがあり得る(私にはあり得た)ということでもある。 智慧を得る前の自分に戻ることは、どうしてできな

          智慧の不利益

          『ダンマと共に仕事をすること』 サヤドー・ウ・ジョーティカ

          出典:Working Work with Dhamma - Sayadaw U Jotika littlebang.org/working-work-with-dhamma-sayadaw-u-jotika/ 『ダンマと共に仕事をすること』サヤドー・ウ・ジョーティカ  [これは私たちの敬愛する先生であり善友であるウ・ジョーティカ師からの、仕事をしながらダンマを自身のワークライフに統合しようと試みている在俗の人々(そして僧侶たち!)に向けてのメッセージです。 ウ・ジョーテ

          『ダンマと共に仕事をすること』 サヤドー・ウ・ジョーティカ