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涅槃は無時間的なもの

Xで興味深いポストを拝見した。

同時に、涅槃に関してウ・ジョーティカ師が言及している箇所を思い出した。

涅槃は無時間的で、時間を超えたものであり、 時間の領域には存在しません。
これは非常に混乱を呼びやすく、語るのが難しいことです。

『自由への旅』ウ・ジョーティカ著, 魚川祐司訳, PDF版, p.241

師がここで言おうとしているのは、煩悩の潜勢力の根絶についてであるから、その文脈からは外れることになるが、それを承知で、「涅槃は無時間的である」ということについて私の考えを書いてみる。

涅槃は、なぜ無時間的であると言われるのか?
阿羅漢の般涅槃は別として、悟った人々、つまり預流・一来・不還・そして肉体の死を迎える前の阿羅漢は、何度も涅槃を経験し得るが、涅槃の経験ののち、再び現象の世界に「戻って」くることになる。
それが一瞬のことなのか、数秒、数分、数時間のことなのかはわからないが、
人はある瞬間に涅槃に入り、ある瞬間にそこから出てくる。
涅槃には始まりと終わりがあるわけだ。
それが無時間的と呼ばれるのはどういうわけだろう?
「時間の領域に存在しない」とはどういう意味だろう?


その意味というか理由は、
涅槃の状態においては何も生成しないから、ということだと思う。

物質的と精神的のプロセスの停止が、涅槃であると言われる。
そこでは全ての現象が止まる。そこでは何も生成しない。
何も生成するものがないから、消滅するものもない。
だからそれは無時間的なのだ。
ここで、そもそも時間とは何か?という問いに答える必要が出てくるだろう。
私にはむずかしい哲学はわからないが、瞑想を続けていくうちに、気づいたことがある。

この「変化を時間と呼び習わす」ことに思い至った瞬間のことを、今も覚えている。微細な感覚の観察が継続しており、思考が止んで、あらゆる概念や観念の想起も止んでいる時、あるのは瞬間ごとの現象の変化生滅だけだった。今・この瞬間に心が完全にフォーカスしているとき、時間は存在できない。しかし、少しだけアタマを働かせて、心の視点をズラして、視野を広げて現象を見たとき、「時間が立ち現れる」のをはっきりと感じた。
それまではずっと、最初に時間というものがあり、その枠組みの中で現象が起こっているのだと無自覚に信じ込んでいた。
しかし実際は、先に現象があり、現象をひとまとめにしたときに、時間という概念が形作られるのだった。つまり、時間が存在するためには、変化生滅する現象が先になければならない。

現象が何もないところに、変化は存在しない。
変化のないところに、時間は成り立たない。
涅槃においては現象は完全停止し、変化するものが何もない。
そこには時間という概念を組み立てるための材料が存在しない。
これが、涅槃が無時間的と言われる理由だと思う。


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