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悟らないほうが不可能だ

以前、某瞑想センターに行ったとき、そこで数ヶ月の長期滞在をしている方が、「このセンターの指導者の中に、ソーターパンナはいないと思う」と話していた。ソーターパンナとは、最初の涅槃を経験し、悟りの第一段階に到達した人のことだ。

なぜそう思ったのか尋ねると、どうも20人ほどの指導者が集まる年次集会に奉仕者として参加したとき、その指導者たちがおしゃべりに興じて、あらかじめ決められたスケジュールになかなか従わない様子を見たそうで、そんな当たり前のことさえできない人たちが、まさか悟っているはずがない、と感じたらしかった。また、彼らがベジタリアンではなく、普段から肉を食べていると話していたことも、指導者たちが凡夫(悟っていない者)であることの証左に感じられたようだった。

私はむしろ、そのように自由で奔放な態度こそが、彼らが悟っていることの傍証であるようにさえ感じた。
そして何より、十数年、人によっては数十年もの間、五戒を守り、ヴィパッサナーを継続的に修行し、メッターを育み、生徒たちにダンマを指導するという最上のダーナ・パーラミーを積んできた人たちが、誰もソーターパンナにさえ達していない、などということは、ありえないだろうと思った。
不可能だと言ってもいい。
しかし、あえて口には出さなかった。
それを伝えたところで、彼はそれを受け入れないであろうことは明白だったからだ。
「あなたはとても『信心深い』方なんですね」とでも思われて、
むしろ彼の疑いを強化してしまう羽目になったかもしれない。

そう、彼は疑い(ウィチキッチャー)という煩悩に後押しされて、指導者に対して批判的になっていたのだろう。
彼はまた、このセンターで指導されている内容についても、批判的な見解を持っているらしかった。「ここの指導者は悟っていない」と思うならば、つまり「ここのやり方では悟れない」と言うのと同義であるからだ。

疑い(ウィチキッチャー)という煩悩は、いろいろな現れ方をするが、指導者や瞑想法に対して疑いの目が向くことも多い。
そうなると、修行そのものから離れるしかなく、修行から離れるなら、悟りからも離れることになる。
瞑想を邪魔する煩悩はいくつかあるが、その中で最も厄介なのが、この疑い(ウィチキッチャー)であると私は思う。

しかし、彼はなぜそんなふうに疑いを持ちながら、長期滞在奉仕などしているのだろう?と疑問に思ったが、幸いというべきか、
「ここの指導者たちはダメだ。ここの瞑想指導は不完全だ。私こそが悟りを開いて、このセンターのやり方を変革しなければならない」
と、むしろ瞑想を頑張る方向にエネルギーが向いていた。
彼が全ての疑いを乗り越えて、ダンマへの信心が確立することを願っている。

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