コーヒー日記⑭;しがない理学療法士のなんちゃってリハビリ哲学part①
思考と喜び
リハビリテーションを行っていると、セラピストと患者さん(利用者さん)の関係は、「能動的ー受動的」になりやすい。
つまり、セラピストは能動的であり、「わたしが治療して、治す」という意識が強く、一方で患者さん(利用者さん)は、「リハビリしてもらう」という意識が強い。
この関係性を全面的に否定するつもりはない。
だけど先日、國分功一郎著 『中動態の世界』を読んでいて、はっとした。
この文章だけを切り取るとかなり大胆な分類分けのようにも思うかもしれないが、個人的には腑に落ちる分け方だ。
リハビリテーションは、一般的には「活動能力 potentia agendi」を維持・向上させる営みである(※)。
(スピノザが示す活動能力は、単に身体機能のことではなく、もっと広い意味をもつ概念であるが、論点がズレてしまうのでここでは詳細は控える。)
当然、それが高まったと感じられれば、「喜び laetitia」につながるだろう。
ただ、リハビリテーションを受ける方にとって、活動する能力を高めることは容易ではない。
たとえば、足を骨折した患者さんを想定してみる。
骨折の種類、程度、手術方法など、リハビリテーション以外にも回復に関わる要因は様々ある。医療従事者はチームとなって最善を尽くす。
が、特に高齢者の場合、受傷前の状態に完全に戻ることは稀である。
病前、独歩で歩かれていた方は杖歩行になり、杖歩行で歩かれていた方は、歩行器歩行になる、ことも多いのが現状だ。
もちろん、足を骨折した直後は歩けないのだから、その状態と比較すると「活動能力 potentia agendi」は高まったと感じることができるだろう。
その一方で、「怪我する前と比べて歩きにくくなっちゃったな、、、。」と感じるだろう。
つまり、「喜び laetitia」と「悲しみ tristitia」が混じり合った、複雑な感情となる。
そこで、「思考能力 potentia cogitandi」の出番である。
リハビリ職的な視点だと、「思考能力」を「認知機能」に置き換えてしまいたくなるが、それは違う。
「思考」と「認知」は別物だ。
「能力」と「機能」もホントウは区別するべきなのだが、ここでは便宜上、ともに「力」と置き換えてみる。
すると、
思考能力=考える力
認知機能=理解し、判断する力
と、わけることができる。
といっても、理解し、判断するためには考えることが必要だし、考えることは理解し、判断することにつながるから、両者は混在している。
それでは何故、「思考能力 potentia cogitandi」について考えるときに、わざわざややこしい「認知機能」との対比について述べたのか。
それはもちろん、これらをわけることが、リハビリテーションにとって重要と考えるからだ。
重要なことは、思考能力は、「主観的」で「計測困難」であるということだ。
「認知機能」、いってしまえば「活動能力 potentia agendi」も、「客観的」に「計測」が可能だ。
「認知機能」ではあれば、HDS-RやMMSEなどといった検査、「活動能力 potentia agendi」であれば、FIMやBIなどといった検査がある。
つまり、数値化できる。
一方で、「思考能力=考える力」は、「認知機能=理解し、判断する力」とわけて考えた場合、数値化は困難である。
だって、検査し、それを数値化している時点で、判断していることになるから。
だから、「思考能力 potentia cogitandi」は非常に捉えにくい概念である。
でも、だからこそ、患者さん(利用者さん)が「喜び laetitia」を見出していくための「希望」になりうるのだ。
どういうことか。
客観的に検査・測定できないということは、客観的なデータと、主観的な感覚のズレが生じないということでもある(客観的なデータを示すことができないのだから当然である)。
そのため、「思考能力 potentia cogitandi」が高まったかどうかは「主観」に委ねることになる。
冒頭で、セラピストと患者さん(利用者さん)の関係は、「能動的ー受動的」になりやすい、と述べた。
つまり、リハビリテーションを開始する時点では、患者さん(利用者さん)は「受動的」になりやすく、そのために「思考能力 potentia cogitandi」が低くくなっていることが想定される。
だから、患者さん(利用者さん)が、「主観的」に「思考能力 potentia cogitandi」が高まったと感じることができれば、「喜び laetitia」と「悲しみ tristitia」の混在状態から半歩でも抜け出して、「喜び laetitia」を感じることができるのではないか。
数値化できないからこそ、「思考能力 potentia cogitandi」の高まりには無限の可能性がある。
「活動能力 potentia agendi」に関わる検査には満点があるし(満点であっても主観的に活動能力が不十分だと感じる方は多い)、歩行検査などの改善にも、限界がある。
「思考能力 potentia cogitandi」は、工夫次第で、いくらでも「主観的」に高めることができると思うのだ。
わたしたちリハビリ職が関わることで、患者さん(利用者さん)はどういう状態になることが望ましいのだろうか。
「活動能力 potentia agendi」を高めて、安全な生活を送ってほしい?
いや、それだけでは不十分だ。
リハビリテーションによって「活動能力 potentia agendi」を高めることを目指しつつ、一緒に考え、悩んで、患者さん(利用者さん)自身の「思考能力 potentia cogitandi」を高めていく。
そう、人間は誰だって幸せになるために生きている。
「思考能力 potentia cogitandi」の高めることは、幸せ、つまり「喜び laetitia」につながる。
「思考能力 potentia cogitandi」にも着目してリハビリテーションを行うこと。
それは、「喜び laetitia」を得るために、行われるべきものなのだ。
(※)
あくまで、一般的なイメージとしてこのように述べている。
たとえば、リハビリテーションの定義として、世界保健機関(WHO)の定義を引用すると、「リハビリテーションとは能力低下の場合に機能的能力が可能な限り最高の水準に達するように個人を訓練あるいは再訓練するため、医学的・社会的・職業的手段を併せ、かつ調整して用いること」と記載されており、そこには若干ではあるが「思考能力 potentia cogitandi」を思わせる文言(強調部分)が記載されている。
一方で、日本理学療法士協会が定義する理学療法士とは、「ケガや病気などで身体に障害のある人や障害の発生が予測される人に対して、基本動作能力の回復や維持、および障害の悪化の予防を目的に、運動療法や物理療法などを用いて、自立した日常生活が送れるよう支援する医学的リハビリテーションの専門職」であり、そこには「思考能力 potentia cogitandi」を思わせる文言は記載されていない。ただ、最近では「総合理学療法」なるものも定義されつつある。