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ペストとはなにものか。今、改めて『ペスト』を読む意味とは?


ペスト(新潮文庫)
宮崎嶺雄/訳

1.ペストと現代のパンデミック

この小説が書かれたのは1947年、日本で初めて翻訳されたのは1950年だから今から70年前である。現在も相変わらずパンデミックが続く状況下で、何かしら意味あるものを引き出せないかという思いがあり手に取った。
読後感としては「良質な一本のエンターテイメントの人間ドラマ=群像劇を観た感じ」とまず言っておこう。読みやすく事実だけを簡潔に述べていく文体は最初カミュが新聞記者をやっていたせいかと単純に思ったが、意図があってのことだとわかった。それに関しては後で述べる。
読み進めていく傍から頭の中を映像フィルムが流れていく。人間ドラマと言ったのは、これがアルジェリア海岸の一都市オランで起きた、ペスト菌蔓延という非常事態下における人々の葛藤を描いているという点でだが、普通にパニック小説として読む楽しみもある。

天災というものは、事実、ざらにあることではあるが、しかし、そいつがこっちの頭上に降りかかってきたときは、容易に天災とは信じられない。ー中略ーペストや戦争がやってきたとき人々はいつも同じくらい無容易な状態にあった。

本文より

医師リウーの「こいつは長くは続かないだろう。あまりにもばかげたことだから」という人々の思いを代弁するような言葉ももっともである。

人類の歴史に何度となく猛威を振るったペストは治療をしなければ致死率も高く恐ろしい疫病であることに変わりはないが、現在では抗生剤による治療も可能になってきている。
それに引き換え新型コロナウィルスがペストと異なるのは(現在ワクチンや薬などは出来たものの)、以前として変異を繰り返し続け人類にとっては未知のウィルスであるということだ。

それで先ほどの続きでこういわれたならどうだろう。

「ばかげたことであるが、しかしそのことは
そいつが長続きする妨げにはならない」

これは何と歯痒く恐ろしいことであろうか。

市の門が閉鎖され人々は突如愛する者と別離の状態に。<病疫の無遠慮な侵入は、その最初の効果として、この町の市民に、あたかも個人的感情などもたぬ者のようにふるまうことを余儀なくさせた>とあるように、人々は市の門の中に拘束された囚人も同然となる。手紙を書くことさえ奪われ、相手との唯一の心のつながりは電報というわずか十語の使い尽くされた常套句に。
SNSの時代である現在はそれに比べれば何と幸福なことか。それでも一時期は身内のものの死に目にも会えない悲劇も生まれ、今でも病院の面会にも規制がかかっている。

いつまで待てば解放されるのかはっきりしない苦しみ、時間というものにうまく折り合いをつけるためには、未来の方へ振り向くことはせずにその日暮らしの浮薄な人間になることも、疫病に対してある程度は有効な手段なのかもしれない。

彼らも数週間前には、こんな弱点や没個性的な隷属状態に陥らないで済んでいたのであるが、それは彼らが世界に対してただひとりでなく、そして、自分と一緒に暮らしていた人間が、ある意味で自分の住む世界の前面に介在してくれていたためであった

本文より

つくづく真に人が人生を謳歌するのに必要なものの存在と、改めてペストが人から奪ったものの大きさを感じずにはいられない。自ら孤独を好むにしてもそれは自由というものが目の前にあってこその選択ではないのかと。


1720年に描かれたペスト医者(作者不詳)

2.小説の背景

小説では、患者を救うために日々奮闘を続ける医師ベルナール・リウーと、彼の回りを様々ないわくありげな人物が取り巻く。
ペストの問題と関連して様々な問題が提起されていく。自由、愛、正義、友情、罪、信仰…等々。
興味深い点について2、3挙げてみよう。
登場人物の多くが文章を書く行為を日常的に行っている点。タルーの手帳、グランの小説、新聞記者のランベール。そして最後に明かされるこの物語の語り手で記録を書いた人物。最初のほうで小説の簡潔で読みやすい文体はカミュが新聞記者だったから…と書いたのは、語り手なる人物がペストの証言者として出来るだけ客観的な語調で記録することに留意したからである。特にランベールという新聞記者に対してカミュは自身の経歴も重ね合わせ、親しみを感じつつも厳しい見方も忘れてはいない。それはたとえばリウーとランベールの会話の中にみられる。
「いったい新聞記者というものはほんとうのことをいえるのか」「もちろんだ」「自分の言う意味は全面的にやっつけるというところまで行けるかということだ」「全面的とはいかないが、それはどうしてもそうなんです」このやり取りがあった後にリウーが語った言葉にはよく耳を傾ける必要がある。

これは自分の暮らしている世界にうんざりしながら
しかもなお人間同士に愛着を持ち
そして自分に関する限り不正と譲歩をこばむ
決意をした人間の言葉である

この言葉を聞いて何を思い出すか、それはカミュがペストを書く前に書いた小説『異邦人』の主人公ムルソーだ。

『異邦人』に関しての記述は他にも見られる。

煙草屋の内儀がアルジェで評判になった最近のある逮捕事件について小役人のグランに話したもので、ーそれはある若い商店員が海岸で一人のアラビア人を殺した事件であったーという部分である。
ただ面白いのはその続きで「こういう悪党どもはみんな牢屋へ入れちまったら」と内儀が話すと、脇で聞いていた謎の男コタールが一言の断りもなく、いきなり店の外へ跳び出してしまったという件。このコタールという男は書く側の人間ではなく読む側の人間。
リウーとの会話でこう語る場面がある。「実はこの小説を読んでたんですが、一人の不幸な男が、ある朝、突然逮捕されるんです。おせっかいをされてたのに、男のほうじゃなんにもしらなかったわけです」
鋭い読者ならもうおわかりだろうが、これはカフカ『審判』のことを指していると思われる。
カフカとカミュ、不条理の作家と言えば筆頭に挙げられる2人だが、何故カミュがこの話を取り上げたのか?あくまでも私の推測に過ぎないが、この『審判』の小説で主人公に降りかかった状況をペストに例えているのは明らかだ。
つまり「 天災というものは、事実、ざらにあることではあるが、しかし、そいつがこっちの頭上に降りかかってきたときは、容易に天災とは信じられない」である。

どの登場人物に感情移入できるかで物語の味わいも違ってくるだろう。
自分は人生についてすべて知り尽くしていると、リウーに対してしばしば試すように質問を浴びせる人物タルー。この人物の語る言葉の迫力には圧倒されるが、やはり新聞記者ランベール、私はこの人物に人間的親しみを覚える。彼は<報道記事を書くためにこの世へ生まれてきたわけじゃない。好きな女と一緒に暮らすために生まれてきたのかもしれない……>などと堂々悪びれずに言う人間だ。彼はタルーのように人間を超えたものには目を向けない。皆が我慢の日々を送っている中、愛する妻に会いたい一心で自分一人何とか門外への脱出を試みようとする。確かに自分勝手かもしれない。もちろんそこには彼なりの論理が存在するにしても。
だが医師リウーもそんな彼の思いは否定せず認めた上で自分の立場は決して曲げない。リウー自身にも貧乏だった過去を通しての確固とした人生観が存在するからだ。ここにもカミュ自身の貧しい子供時代の過去が投影されている。
それでランベールの話の続きだが、何度となく門外への脱出を試みながらもいつもあともう一歩という所で最初の時点に引き戻されてしまう様子が、カフカ『城』を連想せずにはいられない。あれほど待ち望んだ脱出の機会がようやく訪れた時も、彼は行くのを断念しリウー達と共にペストと戦う道を選ぶ。この決断に至るまでの気持ちの変化の過程が『城』を連想させるのはもちろんだ。

3.ペストから学ぶ


敢えてストーリー的なものには触れなかったのも、大事なのはたぶんそんなことよりこの本の中からそれぞれが何を読み取るかだと思うからだ。
『ペスト』には現在も続くパンデミックで先の見えぬ私たちにとって必要で大事な言葉が多く散りばめられている。それを探すのも一つの読み方なのかもしれない。
また『ペスト』は単なるパンデミックの代名詞だけではない。
最初の医師リウの言葉を思い出してほしい。「こいつは長くは続かないだろう。あまりにもばかげたことだから」「ばかげたことであるが、しかしそのことは、そいつが長続きする妨げにはならない」という言葉たちを。

その言葉が示唆するように、今も世界で続いている「戦争」


カミュが本作を書く前に書いた哲学的な随筆『シーシュポスの神話』にこんな箇所がある。

戦争に死ぬか、戦争を呼吸して生きるか、そのどちらかがあるだけだ。不条理についても同様だ。大切なのは、不条理ととともにあって呼吸すること、不条理の教訓を承認し、その教訓を肉体のかたちで見いだすことである。

シーシュポスの神話(新潮文庫)



この「肉体のかたちで見いだす」とはどういうことなのか、最高度に不条理な悦びは芸術創造であると言いつつ、カミュはニーチェの言葉を引用しながらさらにこう続ける。

芸術、ただ芸術だけだ、
われわれは芸術をもっているからこそ
真理ゆえに死ぬということがなくてすむのである。



『異邦人』に於いて人々にとっては理解し難い存在であったムルソーという人物。彼が逮捕され最後までうまく説明できなかった心の叫びというものを、様々な人物との交流を通じ、誰にもわかりやすい形の文学(芸術)として表現したのが『ペスト』なのではないだろうか。




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MAGUDARA
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