生きるために学ぶ
なぜかわからないが、学びについての記事を書くと、いつものことながら反応が薄い。
「学ぶ」ことを試験勉強のように思い込んではいないだろうか。
私は学ぶことで心の煩悶や苦悩から解放されることを知っている。
人間には能動的推論が自動的な働きとして備わっているが、その推論は経験に依存しがちで間違うことが多い。
もし、あなたが自分の将来像を想像するとどんなふうになるだろうか。また、過去に抱いた自身の理想像はどれくらい現実化しただろうか。
現実と理想との不一致は苦悩や煩悶を生み出す。「こんなはずじゃなかった」という後悔も生む。
それらのほとんどは間違った推論によるものである。
私たちはルールを知らずに人生ゲームに挑んでいるといってもいいのではないだろうか。
「たまたま」といった偶然を実力のように思い込み、方法を知らなかっただけなのに「能力がない」と思い込む。それもこれも何も学んでこなかったからである。
学ぶことに試験はないのだ。点数を競うことも成績を評価されることもないのである。
試験勉強と学びは違うことを学んでみてはどうだろうか。
私は学ぶことの大切さを知って、これまでよりはマシな生き方ができるようになった。
学ぶことは「良い仮説」を立てることでもある。自分と現実社会での立ち位置をうまく調整することに貢献するのだ。
勤め人の人は、生涯手にするお金は概ね1億から2億といわれる。
その中でどう生きるかも問われているのに行き当たりばったりな生き方では不安にならないだろうか。
その不安を解消するための仮説にはどんなものがあるだろうか。その精度を増したいなら学ぶことが必須だと思うのだがどうだろう。