老齢と社交性
今日86歳の男性と話をした。妻には十年以上前に先立たれ、子供はいない。従兄弟も全て死んでしまった。友達はいない。そんな男性の話だ。
妻は十年以上病気がちで看病する日々だったらしい。そんな妻でもいなくなると、ホッとするよりも「居てくれた方がいい」と言う。話し相手がいないのといるのとではだいぶ違うらしい。
老齢になると「話し相手」が不可欠なのかも知れない。
絵を描きに行くと、高齢者の人は、絵を描くよりも話をすることに夢中だ。
先日も「ワシは昭和23年生まれや、やっぱりな、年齢いくとな会社以外の人と話をせんとあかんわ!」と言ってる人がいた。その通りだろう。
会社の人間関係で自分を秤にかけると大概間違う。会社で通用していたことが社会で通用するとは限らない。
ぼくも身をもって体験している。
このnoteの世界でも同じだ。
敬意と尊重なくしては付き合うことは難しいと感じている。
その86歳の人も「社交性」の重要性を述べておられた。「でもワシは社交性がなかったからなぁ」
「若い頃からですか?」
「そうや、若いうちに社交性を身につけなあかんわ」
「若いうちにですかぁ、この話は、これからの人の知恵になる話なので使わせてください」と言った。
「ええけど、役に立つやろか」
人生の終盤になっての重要ごとと、繁殖期での重要ごとは全く違う。後者に知恵はいらないが、前者には知恵がいる。
通常、全ての人は老いて死んでいく。何に着目するかで対処は違い生き方も違うものだ。
「家族が大切だ」というと「当然!」と答える人ばかりだろう。
しかし、全ての人に家族がいるわけではない。
「家族を持て!」ではなく、家族のいない人、家族がいなくなった人、そんな人が「どう生きるか」について述べた人はまだいない。
「一人だと淋しいでしょう?」そんな話が何の役に立つ?それは自分の話だ。「どう生きるか」の知恵はまだまだ未熟だ。
人間が生きる上で「社交性」はキーワードになるかも知れない。
「人間なんて面倒くさい」と言う人の年齢はいくつだろうか。老齢になっても言えるだろうか。全くの一人になっても言えるだろうか。おそらく言えない。気ままと現実は違うのだ。
いつでも話し相手がいるという条件なら発言は控えるべきだ。知恵ではなく個人的な好みに従った宣言だからだ。
老齢をどう生きるかの課題は、家族がいようといまいと同じだ。そんな人をこれまでたくさん観てきた。
ぼくは社交性の能力が低いので努力がいる。
それでもいつも何かの人の集まりの中にいるようにしている。今週は二回参加した。今日も予定がある。
しかし、まだ誰とも話したことはない。もう何年も通っているのに…。