多くの人が多くを語る
ぼくは、日頃から他人の価値観を理解しようとする環境にあるので、そこから得た価値観について感想を述べてみようと思う。
自分の価値観を信じることは悪くない。たぶん間違っていないだろう。
しかし、また他人も同じように自分の価値観を信じている。
この価値観というやつは意外に厄介で、信じるだけでいいのに「自分の価値観は間違っていない」と言い出すことがある。
「自分が信じているからといって真実とは限らない」ということを頭に入れて、結論を導き出し方がいい。
群盲が象をなでるの諺通りに、個人が理解できる世界は一部である。そして、そこそこ、その世界で生きていけるのだ。「だから間違っていない」と思い込みがちになる。象をなでているのは自分だけではないのだ。
相手の否定は「優劣」で判断する。自分は優れていて相手は劣っているという評価だ。自分の正しさは他人の正しさとはならないことがほとんどだ。
他人の意見や価値を認めようとしないとき、多くは他人の意見を正そうとする。その良かれと思う感情は、他人の意見が間違っているという否定の態度で応じてしまう。傷つけようとしているわけではないはずだ。
自分の価値観は、主観的な世界観と言い換えてもいい。正しさとは無関係である。他人には見えない世界観であり、それは何かの都合でコロコロ変わる。一時の世界観を永遠の世界だと勘違いしてはいけない。群盲は象を移動しながらなでているのだ。
群盲が象を語る時のルールは、他者の意見を否定しないことだ。群盲であることの自覚がいるのだ。しかし、ほとんどの群盲は知っている。自分が語る象は一部だけで、皆が語る象こそが本当の象だということを。
生きることにおいても同じことがいえる。反社会的でなければ、おおよそ、どのような生き方をしても何とかなる。「こうでなければならない」という生き方などないのだ。
人間はコミュニケーションを取りながら生きるいきものた。それらがお互いに影響し合いながら生きていく。
それをつなぐものが「敬意」と「尊重」だ。これらを身につけなければ、お互いを争いなく認め合うことはできないだろう。これは人間だけに与えられた特徴だ。群盲が移動しながら象をなで切った後に語られるものが、その世界に違いないのだ。
こういったことを本当に理解し納得するまでには時間がかかる。これまでも、これからもそれは同じだろう。群盲が移動しながら象をなでるには時間がかかり、それを語り合うにも時間がかかる。
しかし、象について理解し納得した者の数が多くなると、群盲であろうとも、象についての基礎知識になるはずだ。
そうして、人間は優劣の本能に従うのではなく、理性(思考)に従うことが、人間の多様性を理解することだと知るはずだ。
その理解には「敬意」と「尊重」が不可欠である。
この解釈にも多様性があることを理解したうえで意見を述べてみた。