哲学: 心は構造ではなく機能変化する
脳の科学ではこの部位がこれを支配しているといった言われ方をよくされる。確かにそうなのだろう。
しかし、ぼくの興味はそこにはない。決まりきった解剖学的な意味ではなく、生理学的な変化、もしくは機能的な変化が生じるかどうかに強い興味がある。
哲学的な思考もそのことに関与するはずだ。
構造的なものは変えることが出来ないとして、機能的なものは変更可能なはずだ。
痛みは長期にわたるとグリア細胞を含め中枢神経で機能変化を生じる。
そして、適切に痛みを取り除くことに成功すると、その機能変化は正常化する。柔軟性に富んでいるからだ。
それは「刺激と反応」という生物学的の基本によって変化するのだ。
心理的なものも「刺激と反応」によって変化する。
その刺激というのが「快と不快」による判定だ。
哲学では、思考は「不満」から始まり「満足」で終わるという。確かにそうだ。日常でもそれを経験する。
もしこのことが真実なら、思考によって脳の解剖学的な部位の機能変化が生じる蓋然性は高い。
自分を変えるというのは脳の機能変化を含んでいるはずだ。
病的思考が健常な思考に変化することも可能だ。
もちろん限界や不可能な状態もあるだろう。しかし、思考による脳の機能変化は、可変的であるなら、人間の「努力」は無駄ではない。
いつもいうように「どう考えるか」「何がいえるか」「どうするべきか」といった思考が、脳の機能に影響を与えるはずだ。
それは健常をゴールとしたものであるべきだ。そのことは「快と不快」によって判定されるだろう。
つまらないように思えるが、思考というのはわかっているようでわかっていない。
心をコントロールすることは可能なのだが、一般的には病的な心の状態を対象としているので、健常な心の状態について語られることはほぼないのだ。
脳の機能変化があるとするなら、心は努力によって変えることが可能だといえる。
ただ、機能変化は構造の変化ではないので、刺激(努力)を止めてしまえば、いくらかは元に戻ってしまうだろう。
心の制御は生涯続くというのは、このことを指しているのではないだろうか。