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【真面目な話】生きづらさとうつで揺れる君へ。少し道徳の話をしよう

こんにちは、レンです。
普段は、本当に泣き喚ているだけのダメ人間ですが。

うつ(鬱病)とか、漠然とした生きづらさに対し、
一つ「道徳」という道を示したいです。
少しだけ、「道徳心」を持ち、自分を豊かにしてみませんか?

自分へ不安があって、不満があって、自信がなくて。
世界に問い殺されてしまいそうで、生きている意味も分からなくて。
自分の存在意義に、常に不安を感じて疑問を感じて。

無気力で、うつになって、生きる希望が無くなる。
鬱病で、生きづらさが倍増する前に。
ちょっとだけ、まじめに考えてみよう。

何もできない自分、無力な自分。
輝いていない自分。
いろんな自分に押しつぶされ、生きづらい方。

ちょっとだけ、聞いてくれ。
たぶん、その問題は正義と道徳で癒せるところもあると思う。

道徳は馬鹿にできないぞ。


道徳は無駄ではないのだと言いたい

道徳が必要なのは、僕らが無宗教だからだ。
仮に神を信じて正しく祈りを捧げているのなら、君に道徳は要らない。
だって、神が教えてくれるのだから。
なお、僕は無宗教なのでこれは宗教セールスではないと明記しておく。

人生の意味を与えてくれるのは神だった

時折「昔の人は生きる意味で悩まない」という人がいるが、それはある意味で正解である。ただ、ある意味では、間違いだろう。
生きる意味や、生きる価値では、悩んでいたんだと思う。
だけど、個々人で解決策があったし必死に生きるだけで、精一杯だったんだ。

だから、正解だし、間違っているのだと僕は思う。

日本人も、苦しくなったら仏教を信じていた。
病が流行り、時には未曽有の大災害が発生し。
原因不明の天気で、多くの人が飢え死にした。

彼らは、必死に生きていて「なんで生きているんだろう?」と考える暇もなかったのかもしれない。いや、絶対にそんなことはないだろう。
必死に農作をしても、それは実らないのだから。
「頑張っても仕方ない」という心は、あるだろう。

でも、彼らが絶望しなかったのは何故だろうか。
きっと目の前にある幸せを見つめて、それを感じていたからだ。
僕らほど、「絶望だけ」を見ることは、無かったと思う。

なぜ、希望を見ることができるのだろう?

それは、ひとえに「信じる道があるから」ではないだろうか。

これが結局、道徳や神と呼ばれるものだと思う。
それは、生きる意味を与え、価値を与え、傲慢なことを普通としてくれる。
ちょっと不気味で、でも確実に救いの一手になるんだ。

なんで、生きなければならないのだろうか?
まじめにそう考えた時、一つの答えを神が示してくれる。

  • 神の寵愛を受ける為。

  • 神の元に帰り、幸せになるため。

  • 天国で、幸福になるため。

ちゃんと生きる意味が、そこに価値があるんだ。
この考えに賛同できるできないは、関係ない。
信じる者は救われる、ただそれだけの話なのだから。

だから、宗教を信じるだけで救われる命もある。
そこに本当の幸せがあって、解放される心がある。

なぜ、いま道徳なのだろうか?

自由とコミュニケーション能力の対価として、僕たちは「秩序」と「思考力」を失った。だから、道徳が必要なんだ。

失ってしまった秩序は、この世界に大きな災いだけではなく多くの幸せを齎せた。

手に入れたコミュニケーション能力は、一部の人には微笑む素晴らしいモノになった。一方で、多くの人には牙をむき、凶器のようになった。
また、奪い去られた思考力は、大多数を幸せにした。一方で、少量でも、その幸福を上塗りしてしまうほどの、闇を社会に映し出した。

僕たちは、この問題に向き合う必要がある。
今こそ「正義」を問い、考える必要があるのではないだろうか

おもてなしの心など、要らない。
まじめに、人を考えて人に向き合う時間が来ているだけだ。

道徳ってなんだ?

道徳は、「善悪を弁えて、正しい状態に行こうとする心」です。難しいならば、簡単に。

胸を張って正しいと言えることを、正しく行う心

ということです。

ただ、この道徳を難しくしているのは「正義だけで社会が回らない」という、闇社会です。日本でも、屑と呼ばれる人がたくさんいて、そんな人と関わっていく必要があります。

極論、正義(正しい)だけでは生きていけません。

正義って何だろう?

僕にとっての正義は、次の本に集約されている。これは、最高の名著だと思うので、是非とも手にして欲しい。英語版もあるので、安心だ。

この本では正義を「道徳真理に基づく正しい行為」と定義しています。僕も、この考え方には基本的に同意です。

また本書では、僕らの正義には「美徳」というモノが必要だと言っています。この本は要約がたくさんありますが、多分読まないと一生理解できないです。

正義って何だろう、自分の生きづらさって何。
ちゃんと向き合う人は、必読書だと思います。

僕らが自分の「美徳」に従いながらも、正しい行いをしていくには、一つ注意点があります。それは、「コミュニティの先入観」という、恐ろしい価値観を脱ぎ捨てる事です。

例えば、集団で騒いでいる人たちがいます。彼らは、自分たちが集団であることで、増長しどのようなことでも「楽しむために」とか「みんなが」などという価値観で、過ちを正当化します。むしろ、青春のスパイスのように扱い、それで誰かが被る迷惑を、無かったもの、思い出の一部にします。

そのせいで被害を被る人は、ただ、不幸なだけなんだろうか。
それとも、見ず知らずの人間の青春の一ページに乗れて幸せ?
語るまでもなく、わかりきっている事ですよね。

ただ実際に、このような問題は沢山発生しています。
視点を変えれば、少し冷静になれば「駄目なこと」だと分かるはずです。
でも、感情的になっている時、冷静になれない時。
僕たちは、容易に判断を間違えてしまう生き物です。

真の幸福とは、正義とは。
少なくとも、こんな独善的なモノではないですよね?

正義に道徳が必要な理由は?

簡単です、犠牲なく最大幸福を得る為に必要なのです。

良く聞く話ですが、10人を切り捨てて10000人助かれば、それは正義です。
だって、最大幸福を獲得しているのですから。
悲しい事に、生きづらさに怯えて生活している人が、10側というだけ。

間違っても、これが逆転してはいけません。
10人救うために、10000人が犠牲になる。そんな社会は独裁ですからね。

僕らは、この程度の判断はできます。常識的にというか、理性的に。
最大幸福を目指して、行動できる生き物です。
でも、生き残った人たちのことを考えてみるとどうだろうか。

きっと、心の中にわだかまりがあると思う。
少なくとも、10人の人を切り捨てて、見捨てているのだから。
同時に、次は自分がその10人になるかもしれないと怯えている。

僕らは既に、「犠牲ある不格好な正義に満足できない」状態です。
それは自己保身なのか、共感しすぎるからなのか、それとも不幸を見捨てられないからか。

その本質は分かりません。

不格好を許せないから、正義にも美徳を求める

どうすればいいのだろうか、少しだけ迷ってしまう。
だけど、僕はこう思っている。

絶対的な善よりも、公正さや公平さ、社会や他者の幸福を求める。

二つの正義がぶつかった時、どちらかを見捨てるしかない。
その時、きっと重要なのは「どちらがより幸せか」のはずだ。
でも、見捨てるという選択をするときに重要なモノがある。

目的意識だ。

目的なく、適当に見捨ててはいけない。自由であることも、効率的であることも、重要だ。でも、物事には「目的」があって、その目的が何かを考えることも時には重要だ。

僕たちは、その目的が「美しい事=善行」かどうかを、無意識に判断している。自分の中で、正義にも美しさや正しさ、公平公正さを求めている。

今、考える能力が必要だ

考える能力がなければ「何が正しいのか」も分からない。
自分の感性だけに埋もれてしまうし、下らないことに囚われてしまう。

ちゃんと考えるって、本当は馬鹿ほど難しい

間違っても、正義や善性というのは、独善的であってはならない。
それは、まず間違いなく「自由」という権利を振りかざし、時には効率という刃を突き刺し、善という銃弾を撃ち込んでいる。

でも、それは本当に正しい事なんだろうか。
率先して潰れていこうとしている、この日本だからこそ。
今一度、僕たちは考えるべきだ。
誰もが感じている、この不安への向き合い方も、それに紐づく色々も。

小さな悩みは正義に基づき道徳で解決する

日常の悩みは、多くの場合「正義」と「道徳」で許せることが多い。

  • 自分を許せないのは何故だろう?

  • あの人の期待に過度に答えるのは本当にダメなの?

  • 何故、私は生きているのだろうか?

  • あなたは、何の為に僕に声をかけているの?

  • どうして、お金があっても満たされないのか

  • 自分が幸せだと感じることができない原因は?

これを感じるのであれば、君はいま一度考えてみないか。

もしかしたら、君は「正義」か「道徳」か。
そのどちらかを、見失っているかもしれない。

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レン_歩くエッセイスト
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