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「平成31年」雑感 上皇と改元と憲法と

■「上皇」の誕生

▼来週から世の中はわーわーと改元騒ぎになることだろうから、その前にメモしておこうと思う。

▼去年は将棋の羽生善治氏が無冠になり、今年は大リーガーのイチロー選手が引退し、その他にも「平成」の終わりを象徴する出来事が相次いでいる。

これからどういうことが起きるか、誰もわからない。ただ、「上皇」が誕生すること、「改元」の時期、「憲法」との関係、この三つは「事実」として確定している。

▼2019年の5月から「上皇」が誕生する。上皇という言葉は日本史の教科書や時代劇で見かけるくらいの、まさに歴史上の言葉だった。時代劇で印象に残っている上皇といえば、2012年のNHKの大河ドラマ「平清盛」で、三上博史氏が演じた鳥羽上皇と、井浦新氏が演じた崇徳上皇が思い浮かぶ。

現代に上皇が復活することによって、あの時代の政治闘争が復活することはないが、結果的に「天皇」の権威が相対化されるだろう。これは個人の意思とは関係なく、構造的に生じる事態だ。

「天皇」の権威が相対的に弱まることによって、総理大臣の政治的権威が相対的に強まるだろう。現在の総理大臣は自民党総裁3選中の安倍晋三氏であり、もしかしたら総裁4選もあるかもしれない。

国内の「権威の力学」は変化していく。そうした変化は「世界の中の日本」の影響力が弱まっているなかで起こる。日本の立憲君主制は、未知の領域に進んでいく。

■「踰年(ゆねん)改元」の伝統

▼二つめに、新しい「元号」が使われ始める時期について。

いわゆる「踰年(ゆねん)改元」が採用されなかったのは残念だ。「踰年改元」は見慣れない言葉だと思うが、「次のお正月から改元する」という方法だ。

平凡社の『世界大百科事典』をみてみると、〈代始改元が帝位交代の翌年に行われる慣例も、(中略)平安初期から見られる〉(佐藤進一)とあり、平安時代の昔から、改元といえば「踰年改元」が慣例になっていたことがわかる。つまり、現代の、ただちに改元する流れは、日本の伝統的な改元ではないということだ。

▼筆者がお正月で元号が変わる「踰年改元」がいいと考えるのは、単純に、それが国民にとって便利だからだ。ただでさえ、西暦と元号の数字が違うのは不便だ。

政府内にも踰年改元の考えはあったようだが、いろいろあって、改元は5月1日になった。お正月の天皇はたしかに忙しいのだが、国民の生活のことを考えれば、政治家には知恵の出しようがあったと思う。

▼それにしても、「上皇」や「踰年改元」という言葉をキーボードで打ちこみながら、明治以来100年ちょっとの歴史しかない「近代国家」というものの底の浅い伝統よりも、1000年を超えて続く「天皇家」の伝統のほうが、はるかに深いものがあることを、つくづくと思い知る。

■憲法と「国体」と

▼三つめに思ったのは、「家」を守る努力が、「国」を守る努力に直結してしまう唯一の家族が、皇族である、ということだ。

▼天皇の「生前退位」の意思がNHKでスクープされ、天皇自身がマスメディアで声明を発表するまでの経緯は、明らかに憲法を逸脱している。

神戸女学院大学准教授の河西秀哉氏が、2016年10月14日付毎日新聞に寄せたコメントが参考になる。

〈天皇が今回映像でおことばを発したことがいいのかどうか、今後検討する必要がある。天皇の意思によって政治が動かないようにしているのは、戦前の反省を踏まえている。天皇の生前退位を望むお気持ちに対し、政府はきちんと対応してこなかった。このような政治の不作為があったので、天皇がやむにやまれずにおことばを発したのではないか。しかし、そうだとしても、天皇の意思から政治が動くことには問題がある。

▼2016年、天皇は「憲法」の圏外、「民主主義」の圏外で動いたが、河西氏のコメントのように、「動かざるをえなかった」と考えたほうが価値的だと思う。

一連の出来事は「国体」という観念を想起させる。

憲法は、政治権力を縛るための知恵だ。しかし憲法は、必ずしも天皇を縛るわけではない、ということが可視化された。「憲法」は「国体」を構成しているが、「国体」のすべてではない。

「国体」の中身が何であれ、天皇に頼らざるを得ない国家運営を続けていくことは、「民主主義」にとっては決していいことではない。

▼今回の「生前退位」への動きは、法理的には、天皇が法を超えた力を行使した瞬間だったが、社会的にはほとんど何の反発も起きなかった。

天皇が何年も悩み抜き、決断した行動は、国民によって受け入れられた。今の国民は、今の天皇に親近感だけではなく、尊敬の念すら抱いている。

「昭和」と「平成」とで、国民の天皇観は大きく変わった。それは、「これからも天皇観は変わりうる」ということを示している。

▼今後の「天皇と政治と国民」の関係について、学習院大学名誉教授の河合秀和氏のコメントが興味深かった。

特に後段は極論のようにみえるが、極論を想定することで、物事の構造が見やすくなる場合がある。「エコノミスト」の2016年8月30日号。見出しは、

〈政治家の介入から天皇を守ることが国民の責務〉

リード文は

〈国民が天皇について自由に語れない文化では、天皇の政治利用の恐れが大きくなる。〉

〈明仁天皇は皇太子時代に、慶応義塾大学塾長の小泉信三から、「君臨すれども統治せず」の伝統をくむ英国王ジョージ5世をモデルに、立憲君主としての帝王学を受けた。その父である昭和天皇は、皇太子時代に渡欧した際にそのジョージ5世に直接会い、多くを学び取ったことを明仁天皇はよくご存じであろう。

 象徴天皇制とはいえ、今の日本は立憲君主国である。国家元首は神聖不可侵で、一切、過ちがない。元首が間違いを犯したなら、首相が代わって一切の責任を負う。立憲君主制はこの立憲的な首相がいなければ機能しない。そのことを政治家も日本国民も本当に理解しているのだろうか。今回の「お気持ち」を読むと、天皇がそうしたことを非常に心配されていることが読み取れる。極めて重要な皇位継承問題について、歴代首相の誰も責任を取って決断する様子を見せない。「喪と祝い」についてさえ、かじ取りをする雰囲気がない。〉

国民の側で「そんたくする」カルチャーが残れば、天皇を政治利用しようとする動きが出てくる。例えば、靖国神社の参拝について、政界の有力者は「参拝しない」という天皇家の方針には反対のようである。靖国神社の参拝を「国事行為」に指定して、意に沿わぬ天皇を辞めさせる動きさえ出ないとも限らない。それゆえ、むしろ、このような政治家の介入から天皇を守ることが、国民にとって現行憲法下で課せられた責務ではないだろうか。

▼元号は、国際的には極めて特殊な文化である。そして去年は、この元号について、まず「こういうものです」と説明しないと、日本人以外に対してまったく説明が不可能な出来事があった。

オウム真理教の死刑囚の一斉処刑である。(つづく)

(2019年3月27日)

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