第一幕 三頁 夏の喪失
静かに僕は息子の義治が何かを物色している音を聞いていた。
何をしているかなんて野暮な事は聞きもしない。
態々僕に其れを言いに来たのではあるまい。
僕が思うに、金でも無くて金策に困り、妻が派手に袖を振ったものだから、僕な目が見えないのを良い事に、金目の物でも漁りに来たんだろうさ。
それだけ会っていなかったんだ。
もう、赤の他人同然になるには、距離も時間も十分過ぎる。
其れを証拠に、義治は妻のドレッサーの下の引き出しを開けては閉めている。
時々金目の物があったのか、ガサツにビニール袋にガサガサと入れた。
耳が聞こえない分、此の家の音は飽きる程知り尽くしてしまった。
「義治……悪いが、少し喉が渇いた。冷蔵庫に麦茶がある。取ってくれないか。……其れに如何も何時もの音が無いと落ち着かない。話はきちんと聞くから、ラジオの電源を入れてくれないか」
僕はそう頼んでみた。
金目の物を持って行くならば、そのくらい取って貰ってもバチは当たらない。
「ああ、分かった。今日は暑いからな。脱水症状にでもなられたら困る」
と、義治は言い乍ら、冷蔵庫へ向かい、開いた。
「やっぱり料理も……。殺風景だな」
「そうか?弁当の方が案外二人だと、食材も余らないしバランスも良いんだ」
僕はそうな風に妻を擁護する。
何故、今此の場にすらいない妻を擁護しようと思ったのかは分からない。
確かに、妻の気は他に向いているだろうし、とても良妻とは呼べないかも知れない。
そんな僕を、もう一人の己は嘲笑う。
其れは単に……捨てられそうな、惨めな自分を隠したいからでは無いかと。
僕の良心が言うならば、そんな事も関係無しに未だ妻を愛していただけに過ぎない。
何時だったろうか……。
「傍にいるだけで良い」
「傍にいるだけで幸せ」
そう、言い合えたのは。
若い頃はこんな風になる事も、全く見えてはいなかった。
未来には誰にも平等に、救い様の無い現実が起こる可能性があり、人の尺では計り切れぬ絶望もあると。
幸せを想う時、真逆の不幸を感じて語る者などいない。
若き日の方が、目が見えていても見えなかった物もある。
僕はもう……視力だけでは無く、空想し望み見る力をも放棄しようとしている。
現実には何も望まない。
無欲であると言えば格好も付くが、そんなものでは無い。
生きているだけマシだと、苦笑する毎日さ。
妻に殺されないだけ……。
多額の死亡保証付きの保険の事を時々思い出す。
纏まった金欲しさに、何時だって殺されてもおかしくはない。
なのに、苦笑で済んでしまうのは、もしもそんな日が来ても、僕は笑うからさ。
何も望まなくなった僕にトドメを刺すのが妻ならば、僕は喜んで受け入れる。
気に掛かるのは、僕が死ぬ事では無い。
そんなきっかけを置いてしまったが為に、妻が残りの一生を台無しにしてしまわないかと思うからだ。
もし、目が見えても……何処までも二人で逃げようだなんて、足の無い幽霊は言えないのだから。
「ずっと……守るから」
そんな言葉は、叶わなかった。
直ぐに守られる様になったのは僕の方。
申し訳なささえ感じている。
こんな人生に半無理矢理に付き合わせてしまった。
家族旅行や沢山の夢も在ったかも知れない。
なのに……何一つ、文句も言わずに……。
だから妻のする事は何でも許せた。
此の時、擁護したのは建前からじゃない。
守る時間すら無かった僕の、せめての懺悔だった。
「さっきは……言い過ぎた。その……俺も少し考えるから……」
近寄って来た、義治が気まずそうにそんな言い方をした。
「構わないよ。久々だったんだ。気持ちだけが急く事もある」
僕はそう言って微笑んでいた。
次の言葉は分かっていたが、分かっていたから其れでも精一杯に笑ったつもりだ。
「じゃあ……また」
「ああ……またな。叶恵さんにも宜しく伝えておいてくれ。あんまり叶恵さんに聞かないで孫を甘やかすなと、母さんにも言っておく」
そう、僕はやはり帰るのかと、そう伝えた。
きっともう、こんな風に会って話せなくなるだろう。
これが義治と、最後の会話になるかも知れないと言うのに。
そんな時に限って、ろくに父親らしい事もしてやれなかったツケか、頭が真っ白で言葉すら想い浮かばない。
「久々なんだ。もう少しゆっくりして行けば良いじゃないか」……そう言えたら……どんなに……。
きっと義治は今、少しでも早く此の家を出たい筈なのだ。
母さんのドレッサーから盗んだ金目の物を入れたビニール袋を手に……。
そんな事、普通の父親ならば叱れば済む。
ただ、今は妻もいない。
久々に来た義治に孫へと、小遣い一つ渡せない。
義治がそんな事をするならば……妻が孫にそんなに何か買ってやりたがるならば、きっと金銭面で苦労でもしているのだろうと思える。
だから、見逃したくもなった。
この僕に似て、嘘の下手なコソ泥の事を……。
僕の言葉に、やはり義治は何か想うところが在ったのか、何も言葉が出て来ない様であった。
暫くの沈黙の後、ガチャガチャと変わらない音がして、ラジオからはタイトルも分からぬ優しい旋律が響く。
穏やかな波……今の心の様に。
程良い静けさの中、義治が去って行く音を、最後迄聞き逃す事は無かった。
曲間になると、僕は安楽椅子の背凭れに全ての力を投げ打つのだ。
だらりと頭を背凭れの先に乗せ、見えない上を向く。
其処に、清々しい程の空を描いた。
言葉には出さなかった。
口元だけの、別れ。
……元気で……な……。
一瞬でも、何もしてやれなかった此の僕を心配してくれた。
妻に似て、なんて面倒見の良い子に育ってくれた事であろう。
そうだ。
そんな義治ならば、今頃心を傷めているかも知れない。
せめて其の傷が傷まぬ様に、呼び止める事も出来なければもう遅いと分かり切っている。
車で来ていたのはとっくに分かっていた。
到着した時に、聞き慣れない車のエンジン音と、キーレスのキーホルダーを鳴らし停車した事にも気付いていたのだから。
自分の息子の事すら、気付くだけでこんなにも時間が掛かる。
何て愚かで無力な父親か。
間に合ったところで掛けてやる言葉すら思い付かないのに……。
間に合いはしない。
誰もいないし見えない。
ただ、壁を伝い……記憶にある我が家を歩く。
良く使う場所ならば、手摺りや紐で繋いであるから、間違える事も無い。
其れ以外の場所ともなると、随分と久々だ。
何か足元にあっても気付き様が無いのだから、よっぽどの事が無ければ、不必要な場所へ行くのさえ避けて来た。
昔から止まった儘の我が家の記憶を辿る。
セピア色の儘……記憶までもが色彩を失いつつあった。
数歩歩けば、ある程度の小さな物の配置の違いにも気付く。
まるで嫁が掃除した後に神経質な姑がチェックして行く様な物だ。
こんな事を一々指摘されたら、辛抱強い妻でさえこの家を飛び出したに違いない。
ラジオの音が遠ざかるだけで不安を覚えた。
妻が何時も同じ時間に流す。
曲目により分数は違うが、大体今が昼なのか、夜なのかぐはいは分かる。
大雑把な時計なのだ。
当てにならない曇りの日の、日時計の様に。
そうして、僕は久々にゆっくりと家の前に出た。
靴等も分からないので裸足の儘。
義治の事だけが気掛かりで、気付いたらそうしていた。
……夏の喪失感とは此の事であろうか……。
大事な物を失った。
視力よりも大事な物であった。
妻には知らぬ存ぜぬを貫こう。
また好きな物を買えば良いと、笑うだけで良い。
そんな事程度で煌びやかな物は戻って来る。
然し、僕の心が濁り閉ざしていた所為で、妻と愛した筈の子を見失ってしまった。
大人の甲斐性など、捨て切ってしまえれば良かったのに。
図々しくも、今更父親面して何をしているのかと、聞けば良かった。
蝉の音すら…我が心の音を消す
「……折角……逢えたのに……」
誰に言ったかも分からない。
ただ、見えない空に浮かんだのは、君がいた夏。
何故か其の頃には無かった筈の、大人に成った義治の姿が見えた。
ーーー
次の頁を読む⏬