
公立中の文武両道な同級生への劣等感と克服【東大】
はじめに
私は、公立中から高校受験で超進学校を経て、現役で東大理1に入学した。私の出身中学は地元の公立だが、私含めて東大に4名(4人とも男性、しかも全員理系)が合格しており、今振り返ると超優秀な学校であった。全国的に見てもトップレベルの公立中ではないだろうか。
私以外の3名は、高校受験で公立のトップ高校に進学し、全員が一浪を経て東大に合格している。中学に入学してから、現在に至るまでの10年以上の間私は、彼ら3人に対する強い劣等感を常に感じていた。最近はかなり克服されたが。この劣等感は、私の価値観のコアな部分にも影響を与えており、このnoteを執筆する原動力にもなっていた。
今回は自分語りを通じて、私が感じてきた劣等感や、それがどうして克服されたのかを赤裸々に告白したい。
中学時代:劣等感爆発
中学時代に感じていたのは、「文武両道で学校の中心人物である『彼ら』に対して、勉強以外何もできない自分」という劣等感であった。
1学年が300人以上いるマンモス中学であったが、「彼ら」は勉強がトップクラスにできるだけでなく、運動神経も上位であった。サッカー部や野球部といったメジャーな運動部に所属していた。また体育祭では応援団長をやり、合唱コンクールでは指揮者をやるといった具合に、クラスの中心人物で明らかに目立っていた。運動神経が良くリーダーシップもあるため、公立特有のヤンキー系の生徒とも対等に渡り合っていた。当然中学生ながら、彼女がいただろう。いわゆるリア充陽キャである。
それに比べて、自分は勉強以外本当に何もできなかった。運動神経が悪く、娯楽禁止家庭なのでクラスメイトとの共通の話題がない。そのため学校では基本的に人と話さないぼっちであった。勉強が抜群にできたため一目はおかれており、虐められることこそなかったが、まあつまらない中学校生活であった。何なら勉強ですら、例えば中間期末試験や塾の模試で、彼らに負けることもあった。
こんな感じで、何でもできる「彼ら」に対して劣等感を拗らせていたのである。中2くらいから私は、この劣等感を原動力に猛勉強し始めたため(帰宅部だったので時間は無限にあった)、少なくとも勉強面では「彼ら」に負けることは全くなくなった。勉強が学校で1番できることをアイデンティティにすることで、劣等感を軽減させていたのである。
高校時代:束の間の平穏
無事に私は超進学校に合格し、「彼ら」は公立のトップ校に合格した。いくら「彼ら」が勉強ができるとはいえ、部活やその他の学校行事と両立して超進学校レベルの学力を得ることは難しい。その公立トップ校も、全国の公立高校の中では最上位クラスであったが、超進学校と比べたら、偏差値や進学実績が大きく劣後する。これで私は「救われた」と思った。
別の学校に通うことになり、高校の3年間は「彼ら」との接触もなくなったため、劣等感を感じることはなかった。その代わり、超進学校の生徒(特に中学受験組)に対する劣等感が新たに生じたのだが、今回は割愛する(詳しくは以下の記事を読んでほしい)。
東大入学以降:劣等感の再燃と克服
大学に入学してから、しばらくは平穏な暮らしをしていたが、1年ほどして私の劣等感は再燃した。「彼ら」が一浪を経て東大に入学してきたのである。
「彼ら」は、高校でも部活や恋愛といった青春を謳歌していたはずであり、現役での東大合格は難しかっただろう。しかし、大学受験の場合は浪人ができる。しかも超進学校より、東大のほうが難易度は低い。
このようにして、高校時点では明確に差をつけていたのに、最終学歴が一緒になってしまったのである。勉強が1番できることが、「彼ら」に対してアイデンティティを保つ唯一の方法だったのに、最終学歴が同じとなると、「彼ら」は完全に私の上位互換になってしまった。
東大に入学して「意外とリア充が多いなあ」という印象を持ったのだが、1年後「彼ら」が、一浪を経て合格するのを目の当たりにして、答え合わせになった。「彼ら」のように公立出身の東大生は、中学時代から部活・恋愛・勉強を両立してきたリア充だと分かった。
しかも私は、東大に入ってから理系科目の勉強に全くついていけなくなったため底辺学科に進学したが、彼らは進振りの成績も良いようで、理系の人気学科に進学していった。
私の劣等感は再び高まったが、一方で軽減もされていった。その理由は、以下の3点が挙げられるだろう。
①私の私生活が充実してきた
私は大学に入学し、初めて人間関係を築いた。放課後友達と遊びに行ったり、旅行に行ったりした。恋人もできた。部活や大学院の研究活動にも打ち込んだ。このように私の私生活が充実してきたため、「彼ら」と比較してしまうことが減ったのである。
②東大内カーストだと、私と「彼ら」でさほど変わらない
東大内でカーストが高いのは、学生団体の代表や、学生起業家、スーパープログラマー、プロレベルの音楽家のような人たちだ。あるいは野球部やラグビー部など、メジャーな体育会もカーストは高い。つまり、ある程度陽キャであることに加え、意識の高さや一芸に秀でていることが求められる。こういうタイプは、超進学校出身者に多い。
私は当然こういった才能がないのでカーストは低い。一方で、「彼ら」もまた才能があるわけではないので、東大内では目立たない存在なのである。公立トップ校出身の「彼ら」は文武両道でコミュ力が高いので、バランスはとれているものの、何かに突出しているわけではなかった。「彼ら」は、飲みサーやテニサーに所属していたので、「普通の大学生」という観点では、リア充な大学生活を送っていたが、東大内カーストという観点では、別に普通の人であった。
公立中学と東大で求められる能力が変わったため、私と「彼ら」のカーストの差はかなり縮まったと感じる。
③私と「彼ら」のスペックの差が縮まった
カーストの差だけでなく、スペックの差も縮まった。
中学校時代は、男子のスペックは運動神経が良いこととコミュ力が高いこと(=面白い人)の2点に集約されていたように感じる。身長や顔はそこまでモテに関係してこなかった。中学生当時の私は、コミュ障で運動神経が悪かったため、「彼ら」よりスペックが圧倒的に下だった。
しかし大学生になり大人になると、求められるスペックが多様化する。コミュ力が高いことは依然として重要だが、身長や学歴、顔、年収なども大切である。また相対的に運動神経の重要性は下がるだろう。
私は「彼ら」より身長が結構高い。また、顔についても、中学時代は私はメガネでいわゆるチー牛顔であったが、大学に入りコンタクトに変え、ファッションもある程度あか抜けることができたので、「彼ら」と同等かそれ以上である。またコミュ力についても改善された。
となると、私と「彼ら」のスペックの差は結構縮まっていると気づいたのである。
以上3点の理由から、大学に入学してから「彼ら」に対する劣等感は一時的に高まったものの、かなり軽減した。
まとめ
本記事で言語化することで、私が10年以上感じてきた劣等感がかなり供養できた。他人に対する感情の生々しい部分をそのままに書いたので、不快に感じた人もいるかもしれない。共感してくれる人がいると嬉しい。