エッセイ「かんしゃくとどう付き合うか」

私は幼い頃からひどいかんしゃく持ちであったそうだ。今は基本家で大人しく暮らしているからひどい爆発はあまりないものの、パニックや「わーっとなる」状態は日常茶飯事である。

タイトルに「どう付き合うか」などと書いてみたが、どう付き合うかはよくわかっていない。アンガーマネジメントの本は何冊も読んだし、実際にアンガーログをつけたりもやってみた。坂口恭平の言った「怒りを他者に向けず、自分でなんとかする」という言葉も金科玉条のごとく刻んでいる。やはり過去の先達から学ぶのがよいのだろうか。

南方熊楠は柳田國男に宛てた書簡でこう記している。

「小生は元来はなはだしき疳積〔かんしゃく〕持ちにて、狂人になることを人々患〔うれ〕えたり」

この後の数行をまとめて中沢新一は、「ようするに、自分は狂人にならないために、生物学の研究に没頭したというのだ」と言う(『森のバロック』)。続けて「人が癇癪をおこすのは、他人からしたくもないことを要求されたり、したいことができなかったり、思い通りに事が運ばなかったりするときだ」と書く。
坂口恭平の「いのっちの電話」でも、死にたいと訴える人に対して必ず「やりたくないことやってるんじゃないの?」と聞くそうだ。ここに何かヒントがありそうだ。

やりたいことは、手を動かすことであるとより望ましいらしい。頭でぐるぐる内省、反芻、自己否定、してしまうのを違うエネルギーに転化できるからだ。私のnoteは、キーボードのタッチではなく(そもそも私はパソコンを持っていない)、全部iPhoneで入力している。これが性に合うのだ。首が疲れたら、散歩に出て高い空を見上げると気持ちがいい。そうしているとかんしゃくは起きない。

ことのついでに書いておくと、私には多動のけが少しある。映画をじっくり見たり本をじっと読むことはかなり苦手だ。なので自分の中にインプットがあまりないが、それでもアウトプットしてしまう。「インプットなきアウトプット」で文章が痩せ細らないか、はずっと私につきまとう問題である。でもインプットもできるときはできるし、できるときにやればいいのである。

結局、自分の操縦法は自分で学ぶしかない。だけどそれに他人の言葉が非常に役立つ場合がある。だからつねに心はオープンにしておこう。信じられる少数の人の言葉をよく聞いて、自分に合う方法が見つかるまで実験しつづけること。私のnoteも誰かにとってのそんな一助になれたら嬉しい。

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