見出し画像

短編「空気の魚」

 真夏の青空に放たれた魚のことを、だれも捕まえられなかった。
 あ、と呟いた薫が駆け出す。薫の伸びた前髪が風にはだけ、白いおでこが見える。
 かおる、と私はさけぶ、それを捕まえたら薫は一緒になって空高く消えてしまうから――薫が振り返り、薫の顔は真っ白な光に潰されている。
「薫、」
 薫は駆ける。
 黒いパンツの裾がひらりひらり海月のように揺れ、白い足首がちらつく。真っ青なシャツは突き抜けた真夏の青空より強く、その中に押し込められた薫のからだの細い輪郭、うまれつきとても繊細に色素の薄い茶髪が風に揺れ、やわらかくも肌の薄い頬やおでこや首筋がちらつく。布から飛び出た薫の肌は、私の目を奪って、それなのに遠くへ行く。
 薫は駆ける。
 欠けていく。
 薫は今、空まで、魚を追いかけようとしている。
 骨や内臓や肉なんてない、空気だけが詰まった、ビニール製の魚のことを。
 逃げ出したのはたった一匹で、でも、その魚は、薫だけのものだった。
「薫、」
 手を伸ばす。
 私も一歩ずつ踏みしめて、見えない段差を踏みしめて、空まで駆け上がろうとする。
 それなのに、私と薫は離れていく。薫は魚を追って空へあがっていこうとしている。
 ――かおる。
 私の声は蝉の泣く青空に旋回して吸いこまれていく。汗がこめかみを伝い、背中を伝い、顎を伝い、私はからだじゅうで泣いているみたいだと思った。渇いていくのは私も同じだった。
 薫の背中は遠くにあった。
 あの魚はずっと遠く、おそらくもう、月に近い場所まで飛んで行ってしまっているのに。

     <*)) >=<

 私たちのドアを開けると、ビニール製の魚たちが天井すれすれを泳いでいる。
 すべて薫が連れてきた魚たちだった。
 色とりどりの着色がされ、うろこも口もなにもかも平坦な絵でもってうまれた魚たち。
 薫がここへ転がりこんできたのは去年のことだった。夏の夕方。薫は数匹の魚を連れて共用玄関に立っていた。襟首のよれたTシャツが光を吸いこんで発光しているように見えていた。
「捨てるっていうから、連れてきたんだ。燃やされちゃうのは、……ぼくは、……つらい」
 じーころ、じーころ、蝉かなにか私にはわからない声がかすかに響き、透く白とぼやけた橙の混じった光が斜めに射しこんでいた。しゃりしゃりしゃり、と虫が鳴きはじめた。薫はそこへぼんやり立って、紐で繋がった魚を右手でしっかり持っていたのだった。
「ここで飼おう」私は呟いた。「萎んだら、私がちゃんと空気入れてあげる」
 薫はゆっくりとまばたきを繰り返していた。目にかかるようになった、色素の薄い茶髪。そこへ光が染みこんで、それなのに薫のまなざしは渇き、伏せられ、廊下の黒い染みに向けられているだけだった。
 五時の鐘が響きだした。
 薫は手を伸ばし、私に紐を渡した。魚たちが揺れ、蒸し暑い空気をわずかに掻き混ぜる。
 私は受け取った。私も手を伸ばして、あの瞬間、丸ごとを受け入れるつもりで。

     <*)) >=<

 魚が逃げ出したのは誰にだって予想できることだったけど、でも、私たちは魚を失うなんて考えもしなかった。魚たちは天井すれすれの場所で、つやつやに光って、平坦な顔を持ったまま、いつでも私たちの出入りを見送っていたはずだったから。
 私たちはいつも通りドアノブに手をかけ、そして開けた。慣れたにおいがふっとあがり、真夏の昼の空気にすぐに押し負けていく。薫が頬に流れた汗を手の甲で拭い、一歩踏み入った、その瞬間に――黄色と桃色のうろこを持つ、いちばん小さな魚が、最も自然な動きで飛び出していった。その魚は、薫が最後に連れてきた魚だった。
 ああ、と叫んだのは私だけだった。
 薫は持っていたビニール袋を投げ出し、脱ぎかけていたサンダルを捨て、裸足のまま、共用廊下に飛び出していった。上がり框には麦茶のペットボトルが一本、三和土にはもう一本が転がり、たまごのパックが潰れ、透明な中身にはうっすら黄色い液体が漏れ出していた。
 私はぼんやりしたまま、ゆびさきをたまごのパックに向けていた。屈んだら腿の裏に汗が滲んでいてぬるついていた。顔をあげたら、魚たちは私をじっと見下ろしながら動きもしていなかった。
 大きく口をあけたドアを振り返る。
 真っ白な昼の光。蝉の声。遠くで鳴る都市開発の工事の音。廊下の隅っこに転がっている蜘蛛の死体。薫の足音は遠のいていく。階段を滑り落ちるように駆け降りる、激しい音が。たまごのパック。転がったペットボトル。袋の中で窒息していく野菜たち。魚の切り身。ひき肉。捨てられたサンダル――薫の白いあし、うすくてやわらかくてすぐに破けてしまいそうなあの皮膚は、真夏のアスファルトを踏んだらきっと、
 飛び出す。
 引きはじめていた汗に風があたり、風は鬱陶しいほど暑いはずなのに、からだが冷えていく。

     <*)) >=<

 薫の母親はさみしい人だった。
 夫がいて、息子がいても、常にさみしがるような人だった。玄関が怖いの、とよく言っていたそうだ。ひとりきりの家じゃないのに、病的にさみしがってたんだ、と薫は目を伏せる。

 ――だれかがいるのに、一人であることを怖がるのは、なんかわかるから。だから、おさかながいたらいいよって、言った。子どものときにね。ぼくはそのころ魚が好きだったんだ。父親にしょっちゅう水族館に連れて行ってもらってた。テーマパークじゃなくて、水族館の年パスを持ってる家だったんだ。だから深く考えてなかったんだよ。おかあさん、それならおさかなをここで飼おうよって。ぼくは水槽を買ってもらうつもりで言ったんだ。そうしたら母親が買ってきたのは風船だった。魚のかたちのさ、とても趣味の悪い色をした魚。母親は嬉しそうだった。父親もあきらめてたし、ぼくも慣れたよ。おかげでともだちを家に呼ぶことはできなかったんだけど。

 父親を失い、母親を失った薫は、魚のことも手放すように言われた。もともと彼らの暮らしていた家は母親の実家がもっていたもので、すぐに出ていく手続きが始まっていたという。
 魚を捨てないでくれと言った薫に、親戚は呆れたような、それでいてさげすむような目を向けていた。
 萎みはじめた魚の風船を玄関に飼っている家族。
 残された薫は行く場所の見当もつかないうちに追い出され、かろうじて三匹連れだすことしかできなかった。
 私の前にあらわれた薫は、幼いころ眩しく焼き付いた姿のままだったけど、ひっくり返したら、内臓の代わりに知らなかった事実ばかりがあった。 
 ていねいに、大事に大事に育てられたんだと思っていた薫は、たたんだ衣類の角は常にあわないものだと思っていたり、食事を家族で食べるものだと知らなかったり、幼少期に誰もが持っていたようなおもちゃを知らなかったりした。
 薫もそのことに少しずつ怯えるようになっていた。自分が信じていた幸福はどんなかたちのものだったのか、知らなかった、知ったつもりでいて、自分はとても満たされていると思っていた、でも今うみちゃんと一緒にいるようになって、ほかにも友だちができて、それで、ぼくはもしかしたらうその幸福を教えられていたんじゃないかって――。
 それでも薫は玄関の魚のことを大事にしていた。

     <*)) >=<

 だからなおさら、
 私は薫の影を追いながら思いだす。
 だからなおさら、あの魚たちが二度と外の世界に出ることのないように、私がとじこめてあげなくちゃいけなかったんだ。
 薫は今、魚を追って、知らない空を駆け続けている。私も、薫も、だれも知らない、踏み入れたことのない外の世界に、行こうとしている。
 階段を駆け降り、走り続け、ようやく見つけた薫は、眩しい光の中にいた。
 肩が激しく上下し、薫の頬には汗が幾筋も流れていた。裸足は温度を忘れたようにべっとりとアスファルトにくっついていて、小指のあたりに擦り傷ができていた。
「薫。あの魚、きっともう月までいったよ」
 うん、と薫は前を向いたまま頷いた。
 それからうつむいた。
 汗が流れ落ち、顎を伝ってアスファルトに落ちていく。
 薫も渇いていく。
 手を伸ばす。
 薫はゆっくりと私の手を取り、指を絡め、握り返した。

いいなと思ったら応援しよう!