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◆読書日記.《ボルヘス/ビオイ=カサーレス『ドン・イシドロ・パロディ6つの難事件』》
<2025年2月1日>
<概要>
イスラム教の加入儀式の最中に宗派の指導者が殺され、容疑をかけられた新聞記者。急行列車内で起きたダイヤ窃盗と殺人事件に巻き込まれた舞台俳優。雲南の至聖所から盗まれた宝石を追ってブエノスアイレスへやってきた中国人魔術師の探索行……。身に覚えのない殺人の罪で投獄された元理髪店主イシドロ・パロディが、面会人が持ち込む数々の難事件を解き明かす。ボルヘスとその盟友ビオイ=カサーレスによる奇想と逆説に満ちた探偵小説連作集。
<編著者略歴>
◆ホルヘ・ルイス・ボルヘス
(Jorge Luis Borges 1899-1986)
アルゼンチンの作家・詩人。ブエノスアイレス生まれ。十代後半にヨーロッパで前衛的な芸術運動に触れ、帰国後、第一詩集『ブエノスアイレスの熱狂』(23)を刊行。短編集『伝奇集』(44)、『エル・アレフ』(49)などで世界的な評価を得た。H・ブストス=ドメック名義でビオイ=カサーレスと合作、探偵小説叢書やアンソロジーを共同編集している。
◆アドルフォ・ビオイ=カサーレス
(Adolfo Bioy-Casares 1914-1999)
アルゼンチンの作家。ブエノスアイレス生まれ。17歳でボルヘスと知り合い、『モレルの発明』(1940)で作家的地位を確率。代表作に『脱獄計画』(45)、『英雄たちの夢』(54)、『豚の戦記』(69)、『日向で眠れ』(73)など。
《本書の概要/総評》
ホルヘ・ルイス・ボルヘス/アドルフォ・ビオイ=カサーレス著『ドン・イシドロ・パロディ6つの難事件』読了。
![](https://assets.st-note.com/img/1739266414-xgyERrPNCJ5UWj7tqSekXoas.jpg)
1942年にボルヘスとビオイ=カサーレスの合作として、合作ペンネーム"オノリオ・ブストス=ドメック"名義で発表された連作短編ミステリ集。本邦では2000年に初めて翻訳本が出されて話題になった。
ボルヘスと言えば1960年代のラテンアメリカ文学ブームの火付け役となり、世界的な評価を得た小説家である。
特に日本では『伝奇集』や『エル・アレフ』などの幻想的な雰囲気の短編集でボルヘスに惹かれた読者も多いのではないだろうか。ぼくも、その内の一人である。
彼は古典的名作推理小説「ブラウン神父シリーズ」の生みの親であるチェスタトンにも影響を受けており『伝奇集』の中でも「死とコンバス」や「八岐の園」など推理小説仕立てになっている短編も書いている。
が、本作はボルヘスの盟友ビオイ=カサーレスと組む事で本格的に真正面から「推理小説」に挑戦している所が特殊だと言える。
ということで、そのラテンアメリカ文学の権威の参入に賛意を示したのか、2001年には本書が「本格ミステリ・ベスト10」で一位に輝いている。
ボルヘスの本格的なミステリであり、「本格ミステリ・ベスト10」で一位になっているとなれば、ぼくのような昔ながらの本格ミステリ・ファンとしては読まずにはいられない。
◆◆◆
……などと書いてみたものの、ぼくは本書のレビューを書くのにしばらく躊躇していたのである。
それは、本作を読み終わった直後の感想が、一言で言えば「ミステリとしては全くの期待外れ」であったからだ。
大して目新しいトリックがあるわけでもなく、ロジックや伏線の面白みがあるわけでもない。かといって、ボルヘスらしい幻想的な雰囲気があるわけでもなく、更に言えばボルヘス的な奇想や仕掛けがあるわけでもない。
(ちなみに文章に関しても、訳者が「文体がぼくの知っているボルヘスのそれとも、ビオイ=カサーレスのそれとも全くちがうことに何度もとまどいを覚えた(P.263)」というほど、普段の彼らの特徴は本作に出ていない)
1942年に書かれた推理小説として考えてもオーソドックスな推理小説であり、ボルヘスが影響を受けたチェスタトン風でさえない。あらすじに書いてあるような「奇想と逆説に満ちた探偵小説」だとは、少なくともぼくは全く思えなかった。
ちょっとだけ擁護すると"小説"としては「全く面白くない」とまでは言えないし、本作なりの特徴もなくはない。
だが、「推理小説」として期待して読んだぼくとしては、本作に対して細かく分析したくなるほどの興味を持てなかったわけである。
「短評」として後でまとめてあげる記事の中に入れてしまおうとも考えたが、本作について思う事も多少はあったので、短めとなってしまうかもしれないが、メモ代わりに記しておこうと考えたのだ。
◆◆◆
……と言う事で前置きが長くなったが、ここからやっと本作の内容について触れて行こうと思う。
本作のあらすじは冒頭に挙げた通りである。
本作の推理小説としてのスタイルは、基本的に「牢獄探偵」であり、その定型は「安楽椅子探偵」と同様である。
事件の解決を求めて意見を聞きに来た依頼者に対して、探偵が一歩も動く事なく、自分の推理を披露して事件を解決するというスタイル。
主人公は独房に入れられている元理髪店の主人ドン・イシドロ・パロディである。
彼は身に覚えのない殺人の罪で21年の懲役刑に服しており、その彼に次々に事件の解決を依頼しに来る人間が訪れる、というお話。
先に、ぼくが思った本作の特徴を5つほど挙げておこう。
「5つはじゅうぶん多い」と言われる方もおられるかもしれないが、逆に言えば、以下の5点以外はこれといった特徴のない、ほとんど普通の古典的推理小説と変わる事のない凡作だと思っている。
1)ボルヘス的な「枠物語」としての仕掛けが見られる。
2)ほとんど地の文がない「会話劇」である。
3)警察がほぼネガティブな役割しか与えられていない。
4)神秘的な事件が起こる訳ではない。事件に不思議な点はほとんどない。本作で最も神秘的で不思議なのは探偵役のドン・イシドロ・パロディのほうである。
5)登場人物や道具立てが非常に多国籍的である。
と言う事で本作の内容についても、以上の5点に沿って説明していこう。
◆◆◆
《特徴:1)ボルヘス的な「枠物語」としての仕掛けが見られる。》
これは、これといって際立った特徴と言えるほどのものではない。
本書の冒頭にはボルヘスとビオイ=カサーレスの合作ペンネーム「H・ブストス=ドメック」の名で「教育者アデルマ・バドーリョ嬢の書いたこの作家の輪郭を如何に書き写しておく(P.7)」として、それ以降"架空の"ブストス=ドメックの略歴が書かれる。
そして、その後に続けて、作中に登場するキャラクターであるヘルバシオ・モンテネグロの名で「序文」が書かれている。彼はブストス=ドメックの知人として、ブストス=ドメックの人柄を紹介し、その上で本作品集について簡単に賛辞を送るわけである。
この序文は、なかなか傑作だ。
本編に入る前にこれを読んでもあまりピンとくるような箇所はないが、本作を読み終わった後、この序文に戻って再読してみると、本作について簡潔に解説を付し、飄々と自画自賛しているのが分かってとても微笑ましい。
また、本作を読んで色々と疑問に思った箇所なども、この序文を読んでみると解決してしまうような内輪ネタのような部分もあって、そこも面白い点となっている。
例えば、本書では探偵役のイシドロ・パロディを訪れる依頼人が、大袈裟な表現や個性的な比喩を使い、延々と話がわき道に逸れ、怒涛の様にべらべらと喋りたおすのだが、この違和感については「要するに、風刺漫画家のように太い描線を使っている。この種のジャンルでは避けようのないデフォルメは、人物の肉体的特徴をほとんど度外視して、彼らのしゃべり方を残酷なまでに面白おかしくデフォルメしている(P.17)」と書いているとおりで、これを「リアルなアルゼンチン人の描写」だと思ってはいけないのだ。
それ以外にも、5つめの短編「タデオ・リマスドの犠牲」を読んだ時、ぼくなどは「こんな無茶な心理あるのか?」などと疑問にしか思えなかったのだが、これを序文のモンテネグロ氏は「ドストエフスキー的で病的な人間心理の真摯な研究と、スリリングなプロットとが結びついたスラブ的な味わいの作品に仕上がっている(P.16)」と表現していて、ほとんど爆笑してしまったほどであった。
と言う事で、本作で疑問に思った事の「オチ」が、最初の「序文」に書いてあった……といったような奇妙な逆転が起こっているのはなかなか愉快ではあったが、これはもともとボルヘスが計算でやっているという事でもないのではないかとも思える。
「枠物語」としての仕掛けは、単にボルヘスのいつもの趣味であろう。
◆◆◆
《特徴:2)ほとんど地の文がない「会話劇」である。》
これは必ずしも「良い特徴」とは限らない。
これについては、上に書いたように「デフォルメされた人物描写」である事を念頭に入れて、覚悟して読まないと、ほとんどウンザリさせられるようなものになっている。
「会話劇」とは言うものの、ほとんどキャッチボールとしての会話はなく、依頼者が一方的にがーっと喋りたおし、それに大してイシドロ・パロディが「解決編」を一気にがーっと説明して終わる事となる。
要は、ほぼ全編キャラクター同士の会話でなりたっている劇であるにもかかわらず、「キャラクター同士の会話の妙」は、本作では全く感じられないのである。
しかも、その依頼者の怒涛の様な一方的なお喋りが、ストレートに事件の様子を説明するのではなく、延々とわき道に逸れ、大袈裟な表現と個性的な比喩を連発し、関係のなさそうな話がウンザリするほど続くのだ。
その「関係なさそうな会話」が、後に真相に関係してくる場合もあり、全く関係のない場合もある。
だからこれを通常のミステリに出てくる「事件を体験した者の証言」だと思って慎重に読んでいくと、かなり疲れるものになっているのだ。
ここはあくまで「デフォルメされた人物」の誇張されたお喋りであり、半分は証拠にも関わってくる……くらいの感覚で読まなければならない。
こういう所を考えても、やはり本作は「ミステリ」を楽しむものではなく、このアルゼンチン的な異国情緒と、このデフォルメされた人物らのキャラクターを面白がる物語なのかもしれない。
◆◆◆
《特徴:3)警察がほぼネガティブな役割しか与えられていない。》
この点に関しては、ぼくは本作で最も気になった部分だったのだが、残念ながらぼくはアルゼンチンの歴史やその治安状況などについては全く詳しくないので、さほどは深掘りできそうにない。
そもそも、なぜ本作の依頼人は行動が自由な巷の人物に頼る事なく、警察に頼るでもなく、わざわざ自由を拘束された囚人であるイシドロ・パロディに依頼しに来るのか?
本書では最初の短編に登場する新聞記者のアキレス・モリナリが、パロディの評判をあちこちに吹聴して回っているからである。
が、その最初の短編を読んでも、最初にモリナリがパロディに依頼しようと思った動機がいまいちよくわからないのである(本作を読んだ方の中で"どこそこ書いてありましたよ"と分かる方がいらっしゃったらご教示願いたい)。
例えば『羊たちの沈黙』のレクター博士と、本作のパロディとは、似たような「牢獄探偵」であったとしても、その内実は全く違っている。パロディはレクター博士の様な「悪」という特性が全くないのである。
探偵役のパロディは「冤罪」によって服役しなければならなくなったわけだが、その経緯について少しだけ冒頭の短編「世界を支える十二宮」で説明されている。
ある肉屋の男が頭をビンで殴られ死亡した。
その実行犯は<聖なる蹄>と呼ばれるならず者グループだったが、そのグループは選挙戦に欠かせない組織だった。だから、他にスケープゴートとしてパロディが罪を擦り付けられたのである。
パロディが目をつけられたのは警察に勤務している事務員が、パロディに対して家賃を滞納していたからであった。裁判の証言者は<聖なる蹄>関係者であった。
かくてパロディの服役は確定した。
要は、パロディが捕まったのは警察の正当な捜査の結果ではなく、警察関係者から目を付けられたからで、そこにならず者グループも加担した、という事なのである。
そんな冤罪をかけられたパロディは、警察に怨みを持っているかと言えばそういうわけでもなく「私も人を殺したと言われていますが、見ての通りこうして元気にやっています(P.29)」などと言っている。
どうにもパロディは、最初から警察に多くを期待していないようなのである。
例えば本作に出てくる犯人について「今さら彼を告発し、弁護士や裁判官、警官のいる蜂の巣をつついて、意味のない騒ぎを引き起こしたりせず、そっとしておきましょう(P.176)」などと言って見逃したり、他の短編でも犯人を見逃す場面がある。
今どきの人は、何かといえば、政府に頼ろうとします。貧しくてお金がないと、政府に勤め口を探してくれと頼み、体の具合が悪くなると、病院に入れてくれと懇願し、人を殺すと、自分で罪の償いをするのではなく、政府に罰してくれと言うんですからね。私も政府のやっかいになっている身ですから、口幅ったいことを言えた義理ではないんですが、やはり足るを知るべきだと思っております。
これはボルヘスが影響を受けたチェスタトンの作り出した探偵ブラウン神父に真似て、神の慈悲や思いやりといった感覚から見逃しているのとは、また違ったスタンスではあるまいか。
この、パロディの、警官や行政にほとんど期待をしていないかのような感覚は、どこから来るものなのか。
そこでぼくが疑問に思ったのが、当時のアルゼンチンの治安状況だったのである。
本書の舞台は1942年のアルゼンチン。本作が発表された年と同じである。
序文でモンテネグロは「この人物(※イシドロ・パロディの事)が着想され、登場して来たのはカスティーリョ博士が大統領だった時代であると明言しておかなくてはならない(P.20)」と書き、その署名に「1942年11月20日 ブエノスアイレス」と書かれている通りである。
この時代のアルゼンチンをウィキペディアで調べると「忌まわしき十年」の時代の末期と言われているという。
この時期のラモン・カスティーリョ(カスティージョ)大統領はアルゼンチンの保守系政治家で、この「忌まわしき十年」では、政府が権力を維持させるために不正選挙や汚職に手を染めていた時期であったようだ。
そして、本作が発表された1942年の翌年までカスティーリョ政権は続き、43年にクーデターによって「忌まわしき十年」は終焉する事となる。
この1942年という年の、14年前にイシドロ・パロディは冤罪によって投獄される事となった。
1942年の14年前と言うと1928年である。その時期のアルゼンチンはまだ豊かだったようだが、翌29年には世界大恐慌が起こり、1930年に起こったアルゼンチンのクーデターから「忌まわしき十年」が始まる事となる。
1942年当時のパロディが、政府にも行政にもほとんど期待していない様子なのは、恐らくはじめから政府機関がさほど期待できるようなものではなかったからだろう。
本作で警察がほとんどネガティブな役割しか与えられていないのも、こういった経緯があるからではないだろうか。……と、ぼくは考えたわけである。
なぜ依頼者たちは、警察ではなく、わざわざ"罪人"であるイシドロ・パロディに頼るのか。
「世界を支える十二宮」のアキレス・モリナリは、ある事件に巻き込まれ、警察に目をつけられているようだからパロディに頼ってきた。
二つ目の短編、ヘルバシオ・モンテネグロも同様に、警察から冤罪の罪を着せられてパロディに頼るのである。
「タデオ・リマルドの犠牲」の依頼者、トゥリオ・サバスターノも「警察から白い目で見られてうんざりしています(P.180)」と言ってパロディを頼る。
このように本作に於ける警察は、「犯罪を取り締まって市民から頼られる警察」像といったポジティブなイメージがとかく希薄で、どちらかと言えば、何となく庶民から疎ましがられているかのような存在として、ネガティブなイメージで書かれている事が多いのである。
そういった"ネガティブ"な警察に対して、いくら評判が良いとは言っても冤罪事件で捕まっているパロディに事件解決のヒントを聞きに行くとは、まるで警察組織に対する当てつけの様にさえ思えてしまう。
果たしてこれが、ボルヘスとビオイ=カサーレスらの個人的な司法観なのか、それともこれが当時のアルゼンチンの治安と関わっている庶民の感覚なのか……という事については、上にも書いた通り、当時のアルゼンチンの状況について詳しくないので、あえてこれ以上は深掘りしない。
◆◆◆
《特徴:4)神秘的な事件が起こる訳ではない。事件に不思議な点はほとんどない。本作で最も神秘的で不思議なのは探偵役のドン・イシドロ・パロディのほうである。》
上に書いた項目「3」でも、じゅうぶんに探偵役のドン・イシドロ・パロディの不思議なスタンスというものがお分かりになるのではないだろうか。
しかし、本作が「本格ミステリ」としては、全く見るべき部分がないというのは、この点にあるのである。
「事件に不思議な点はほとんどない」……依頼者は、警察の手にも余るような不可解な事件だから探偵に依頼した……といった普通のミステリほどの不思議な事件はほぼ発生しない。
依頼者は、警察に嫌疑をかけられているとか、警察の目がうるさいから、パロディに頼ってきているのである。事件が不可思議だからではなく、事件そのものは目立って不思議な所はないのだ。
不思議なのは、探偵のほうである。
本作の中で、最も没個性的なのは誰なのか? ドン・イシドロ・パロディである。
彼は本作の中で唯一、人間臭い特徴を誇張したデフォルメを受けていない人物である。
パロディは全く捜査をしない。牢獄の中に入れられているから。
彼は牢屋の中でも読める新聞を隅から隅まで読んで世間の状況を把握している。そして、ときどき知り合いから話を聞く程度である。
これは序文でモンテネグロが書いているように「パロディが動きの取れない状態にあるというのは、知的象徴にほかならず、そのことが熱に浮かされたように意味もなく動き回る北米の探偵に対する痛烈きわまりない批判を意味している(P.20)」というコンセプトがあるのだそうだ。
しかし、そうは言いながらもこのパロディは、E・クイーンのようなロジックによって犯人を追い詰めるわけでもなく、依頼者の証言の中に動かぬ証拠を見つけるわけでもない。
彼の推理のプロセスは全く描かれる事はなく、その真相に辿り着いた決め手といったものも、明かされる事はない。
言わば、彼の推理の中身は全く謎に包まれているのである。――こういった点が「ミステリとしては」全く見るべき点がないと、ぼくが思った最大の理由である。
逆に言えば、この探偵の内心は全くのブラックボックスになっており、快刀乱麻を断つような彼の推理は、「推理」というよりも、ほとんど「答えはこれである」と神のお告げを伝える司祭のそれなのである。
本作の中で唯一没個性的な人物であり、その内心が全く読めず、さしたる根拠も示さずに事件の「解答」を淡々と説明する――そんな存在が「本作の中で最も神秘的で不思議」と言わずして、何と評し得るのか?
◆◆◆
《特徴:5)登場人物や道具立てが非常に多国籍的である。》
序文でモンテネグロ氏が「ついにアルゼンチン人のヒーローが、それもどう見てもアルゼンチン的な状況設定のもとに姿を現したことを喜びたい(P.13)」と書いているが、ぼくとしてはこの「多国籍」性にこそ、本作の異国性を強く感じた。
ウィキペディアによれば、アルゼンチンと言うのはアメリカに次ぐほど移民を多く受け入れているそうで、アルゼンチン人は自分らの国を多民族国家と捉えているのだという。
多くのアルゼンチン人はヨーロッパ人の家系で、彼らは植民地時代の移住者の子孫と全体の約86%にあたる19世紀、20世紀の移民の子孫である。
主なグループはイタリア人とスペイン人(ガリシア人とバスク人も含まれる)である。最大で2500万人、つまり60%のアルゼンチン人はイタリアの家系である。ドイツ人、スラブ人、イギリス人、フランス人もいる[16]。少ない人数ではあるが、ユダヤ人、先住民、アラブ人、アジア人、ジプシー、アフリカ人も人種のるつぼを形成している。
そういう多人種が集まっているためか、本書には様々な人種が登場し、その雰囲気も様々な文化のごたまぜのような様相を呈している。
本作の登場人物もセリフの中で「アルゼンチンの卑語、俗語はもちろん、フランス語、ラテン語、英語を織り交ぜ(P.263)」て喋っており、会話中にスペイン俳優、フランス思想家、イギリス、イタリア、キューバの詩人を話題にし、ヴェネチアングラス、イタリア中世の叙事詩、ユダヤのジョーク、システィーナ礼拝堂などなど、会話の俎上に上がるものについても非常に多国籍的だ。
それぞれの短編については、作品ごとに国籍イメージを変えているのではないかと思わせられる所がある。
最初の「世界を支える十二宮」は、イスラム教のグループが出てきて、道具立てもどこかアラビア風である。
続く「ゴリアドキンの夜」はボリビアとブエノスアイレスを数日間、どこにも停まらずに走る急行列車の中で起きた事件を描き、クリスティの『オリエント急行の殺人』めいた雰囲気でどこか英国風。
農場が舞台の「雄牛の神」や現地の熱狂的なカーニバルが出てくる「タデオ・リマルドの犠牲」などはスペイン風だ。
ラストの一編は竹製の灯籠を作る中国人が登場して孟子や易経や礼記の話を披露し、柳の木の下で涙ながらに抱き合う中華風なシーンまで出てきて、流石に笑ってしまった。
ここまでくると確かに序文で書かれていたように、本書のキャラクターが「面白おかしくデフォルメしている」というのにも納得がいく。
本作はこういった誇張によって単純化されたキャラクターによって、多国籍的な多民族国家としてのアルゼンチンという国の雰囲気を醸し出し、多様な「アルゼンチン人」という人々の人間性を浮かび上がらせているのであろう。
ぼくが本作を「"小説"としては『全く面白くない』とまでは言えない」と擁護したのは、この辺のユニークさであり、決して「ミステリ」の部分ではない。
むしろこういった「ミステリ以外の要素」のほうを面白がれなければ、読者は本書を楽しむ事はできないだろう。
◆◆◆
……そんなわけで「短めに」本作のレビューをメモっておこうと思って書き始めた本稿のはずであったが、書き始めたら、まるで本作に出てくるキャラクターのようにべらべらと怒涛の様に喋りはじめて、思わずこんな長々しい文章にまでなってしまった。
読者よ、どうかご容赦のほどを。