いつになったら私は親孝行ができるのだろうか。
お久しぶりです。
祖母の不幸があったり、
そのままお盆で実家に帰省していたりと
なかなかnoteが更新できずにいました。
前回の殴り書きのような記事に
スキやコメントありがとうございました。
ちょっと感情的になりすぎたところもありますが、
文章にすることで私も少し冷静になれたような気がします。
他の投稿にもいただいたコメントを
返しきれていないのでゆっくり返していきます。
本当に感謝の気持ちでいっぱいです。
結局祖母は夜中に亡くなり、
他県に住んでいた私の父は
最期に立ち合うことはできませんでした。
しかし、よくよく聞いてみると、
施設の近くに住んでいた伯父も
亡くなってから連絡があったようです。
施設では心電図モニターをつけることができないので
発見が遅れることはやむを得ないでしょう。
そのため祖母の最期は誰も知りません。
家であれば夜間も付き添うことができる。
病院であれば心電図モニターをつけているためちょっとした変化に気づくことができる。
家でも病院でもない施設は、そのどちらも難しい。
苦しまずに最期を迎えたことを願います。
久しぶりに実家でゆっくりしました。
学生時代まで過ごした
姉からのおさがりの、1人部屋。
娘が昼寝している間
私はその部屋でいろんなことを考えました。
私が就職を機に地元を離れる時、
両親は小さな抵抗をしつつも、
私の人生だからと送り出してくれました。
20代前半。
自分のことしか考えていませんでした。
数年経ち、
看護師としても一通りできるようになった時、
両親から地元に帰ってくるように勧められました。
両親ともに地元とは違う県に住んでいます。
祖父母のもとへ行くのも3時間ほどかかります。
同居することが難しいため、
どちらの祖父母も施設に入っていました。
私は
「両親が私に帰ってきてほしいのは
祖父母みたいに施設に入れてほしくない、
老後の世話をしてほしいからだ」
と思っていました。
そんなの嫌だ、と地元に戻ることは拒否、
結局今の夫と結婚し、そのまま家も建てました。
私たち夫婦が医療従事者で資格さえあれば
他県でも就職できることがわかっているため、
結婚してからも地元に戻ってほしいと繰り返し言っていましたが、
家を建ててからは何も言われなくなりました。
きっと諦めたのでしょう。
20代半ばを過ぎても、
何にもわかっていなかった。
働き始めて 年を重ねるようになってから。
やっと。
「〇号室の××さん、
朝お亡くなりになりましたが
娘さんは県外でいま向かっているところです。
死後硬直が進んでしまうので、
死亡確認は妻だけで先に行う予定です。」
ナースステーションでの朝の申し送り。
何気ない一コマ。
これはきっと何十年後かの自分。
そう思うようになったのは30手前になってから。
私の母は
祖父が亡くなるとき、
コロナ禍ではあったが
なんとか最期を共にすることができた。
それでも本当に亡くなる前のわずか数日のみ。
しかし父は
祖父、祖母ともに最期の瞬間に立ち合えなかった。
遠方に住んでいたためだ。
近くに住んでいればそんなことはなかったのに。
両親は祖父母の死を受容しつつも
きっと後悔しているだろう。
そしてきっと、
老人ホームに入れてほしくないから、とか
自分を最期まで面倒見てほしいから、とか
そういう理由だけで私を地元に帰らせようとしたわけではない。
自分たちがした後悔を
私に経験させないために。
娘を大切に思うが故の言葉だったのだ。
それなのに私は
天邪鬼のようにその言葉を拒否した。
自分のことしか考えていなかった。
夫と子どもとの生活も大事。
でも両親と過ごせる日々は
一体あとどれぐらいなのだろう。
考えては涙が溢れる。
親不孝な娘だ。
大事なことに全然気づくことができなかった。
看護師として働いていた頃は
実家にいることができたのは長くて3日。
この夏は2週間帰省した。
両親、私、娘と過ごしたたった14日間。
私のわがままに夫は文句も言わず受け入れてくれた。
甲子園観て、ご飯を食べて、
スーパーに行って、花火をした。
ちょっとした口喧嘩もしたし、
しょうもないことで大爆笑もした。
遠くに離れているからこそ
そんな日々が貴重なものであると気づくことができた、
と思うことにする。
両親との日々も大切、
だからといって現実から目を背けて
夫と娘との日々を粗末にしてはいけない。
帰りの車の中で涙が止まらなかった。
自分にとって
大切なものがたくさんあると気づけた
そんな20代最後の夏だったと思う。
ご覧いただきありがとうございました。
こちらも読んでいただけると嬉しいです。
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