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適切な距離感を保つ、支援・愛。SWerの専門性。


ヘッダーは午前中に作った「いちごゼリー」です。

お菓子作りが好きなのだと思う。
どうにか、毎日作ろうと考えている。

私の中学時代

中学生のとき(というか今もあんまり変わらんけど)、私は、家族との愛着を結んでいなくて「先生」との関係が命だった。

とにかく「先生」が大好きで、先生に依存して、執着していた、ように思う。

同じスクール3期生のガサキベース、桃子さんが、里親のZINEを書いてはって、そこに里親になるために児童養護施設での実習のことが書かれていた。

私も中学時代、何度も先生の「また話そ!」とかの「また」に本気で期待して、傷ついた

私は子どもだから「社交辞令」なんて、分からないよ、って、実際に日記に書いてたこともあった。多分。

甘えさせて、話を聴いてくれるときもあれば、そうじゃないときもある。当時から「先生は忙しいから仕方ない」とか、色々思っていたけれど。

大人になった、今なら分かる。
「敢えて距離を取ってくれていた」
※いや。学校の先生はそこまで考えてない可能性もあるけどさ笑。

対応の一貫性のなさ、は先生の対応の課題(偉そう笑)だと思うけど、先生なりに色々考えて対応はしてくれていた、多分。笑

大人になるにつれて、自分とうまく付き合えるように

高校、大学と、経験や学び(特に社会福祉系だったこともあり、専門的な知識も学び)、を経て、私は本当に成長した、と思う。

1人の人間に過度に依存しないように、色んな人にちょっとずつ、負担にならない程度に「依存先を分散」させられるようになった。

(大学では都合の良い女をして、失恋して、死にそうなくらい辛い時期もあったけど笑)

私の新卒3年間


私は社会人1-3年目、本当に係が大変で、3年目は本当に係外の先輩や上司にめちゃくちゃ褒められるくらいには、周りのフォローをしまくっていた。

でも、流石に1年目は、自分の仕事も要領を得ない上に、係員もぼろぼろ、係長もぼろぼろだった。
(当時を今振り返っても、まじでこの人に訊いたら大丈夫!みたいな人がおらんのよ。笑)

課長も業務には詳しい人じゃなくて、そこに対する苛立ちは募ってしまっていたけど、本当に人間として、めちゃくちゃ愛の深い、優しい人だった。

福祉職の上司で、大学は教育大の特支出身。療育ベースにキャリアを築いてきた上司で、考え方や、部下への声の掛け方が、とにかくリスペクトだった。

「その場に居なくても、あなたを(頑張りなど)ちゃんとみてるよ」という、意識を与えてくれる上司で。

仕事も係の人間関係も、めっちゃキツくて、辛い日々だったけど「何かあっても課長が(その場にいなくても)気づいてくれる」という、絶対的安心感があった。

職場の心理的安全性が保たれる、というのは、本当に大切なのだ。

社会人2年目で、その上司が異動し、代わりに来た上司は、今までもパワハラ上司で、有名で。

私は適応障害と診断されたのだけど。

その時は、動けない私に、一人暮らしの家まできて、ご飯などを冷蔵庫に入れてくれたり、親に精神的な不調を一切打ち明けていないことを知ってくれていて、帰省(というほど遠くないけど)のための、親への手土産なども全部買ってきてくれていた。(しかも母が洋酒無理なのとかも、全部把握してくれていた)

男性の上司ということもあり、本当に失礼ながら笑、私はいつか「手を出される」ことも覚悟していた。

けど、どんなに手を出してもおかしくない状況でも、そんなことには一度もならなかった。そして毎回そのことが、とても嬉しかった。

3ヶ月前の10月、激務の末に早期退職を決断した、その上司と3年ぶりに再会した。

娘を紹介して、途中から夫に娘を引き取ってもらったので、上司ともゆっくり、7時間も笑、喋った。

そこで言われた言葉に「まさか間違いは犯さない(自死の意)だろうし、もしそこまで落ちてしまっていたら、私は関わるべきではないと思っている」

と、言われ、この人は本当に、心から、私のことを大切にしてくれていて、愛してくれている(語弊ある言い方だけど、恋愛の意ではなく、家族?としての愛)のだ、と思った。 

現に、その後「誰にでも親切に愛想よくは出来ないけど、身内と思える人には無償の愛だ」と言っていた。

ソーシャルワーカーとして考えるべきこと


適切な距離を、うまく取りづらい相手に対して(被支援者という関係でもそうだし、プライベートな間柄でも)、現在の関係性をみながら、相手が一番安定できる距離感で関わることが、相手へのリスペクトであり、最大の支援であり、愛なのだ、と思う。うまく伝わってるか分からんけどさ。そうなの。

相手が不安定になっているとき、その相手が配偶者なのか、遠くにいる友人なのか、はたまたワーカーなのか、で、掛ける言葉や関わり方の正解(正解というと答えが1つみたいになるけど)は違うと思う。

当事者は、電話やメッセージを送って、返事が来れば嬉しいし、救われた気持ちになる。でも、関係を深め過ぎると、少しでも返事がこないことに不安になったり、見捨てられた、という「認知の歪み」で、余計に不安が増す。

相手の状況を適切にアセスメントしつつ、自分との境界線を引きつつ、相手への関わり方のベスト、自分も身を削らない、心身の安全が確保されている関わり方が理想だ。

talk withの居場所作りで関わる支援者向けの研修講師をしたときも、テーマに上がっていたけど、行政とは異なり、コミュニティをテーマに掲げる支援は、境界線が曖昧だ。

だからこそ、余計に、そこの考え方をしっかりしておかなければ、最終的に自分や家族が殺されてしまうかもしれないし、相手も犯罪者にしてしまう。

最悪な状況だけど、実際に起こることもあるから、本当に気を引き締めないといけない。

その場では、一見相手のため、相手の要望に応えることは、優しい人かもしれない。それが本当に将来を見据えても「本人のため」になるのかを、検討しないといけない。

「良い人」、「優しい人」、「嬉しい」、「ありがとう」の言葉に自己陶酔しすぎるのはよくない

行政ではなく、街で活動するコミュニティーソーシャルワーカーとして

私は、今、子どもから大人になり(なりきれてないけど笑)、敢えて距離感を取らないといけない側に立つ場面も出てきた。相手が児童期・思春期であれば、特に慎重になる。

見捨てられた、とは思わせたくない。でも過度に依存を深めさせず、傷つかないように、でも「あなたのこと、みてるよ、大切だよ」を伝えられる、そんな専門的な関わりができる、ソーシャルワーカーでありたい。

そして、そのためには、私が心身ともに健康で、愛に満たされていて、元気で、余裕がないといけない。

夫からの愛を溢れんばかりに受けている。実家とも、新しい家族ができて、今はまだ、学生時代より良い関係性だと思う。

環境は整っている。後は、私の自己管理と自己研磨だけ。
これから、色んな活動や学びを通して、さらに専門性を磨けるソーシャルワーカーになりたい。

※自身の経験によりすぎない、頼りすぎないことも、専門性として大切ですが、今回は悪しからず(笑)。自己覚知も、専門性として大切な要素なので。

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