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翻訳語の世界

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翻訳が人間社会に対して与える影響について示唆に富む記事を集めます
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記事一覧

(仮)翻訳か解釈か。ドイツ語の「忖度」をめぐって。

言葉の壁を超えることはとても暴力的な試みやなーと思う。一つの単語をとってもそれは他の諸単語やそうそう単純には可視化できない言語の体系に結びついて存在している。例えば一つの言語的枠組みが存在するとして、そのネットワークに存在する言葉を選び出して、その意味内容を推察し、他の言語体系の中の特定の言葉を以て表現しようとするとき、それは非常に困難なものに思えてくる。それが翻訳するということだとしたら、一度の翻訳には多重の決断が含まれているように思う。 「忖度」という言葉を例に取る。田

ジェイン・オースティン『高慢と偏見』 外国語を日本語に翻訳するということ

こちらの記事に刺激されて。 「外国語を日本語に翻訳するということ」などという御大層なタイトルを付けたものの、翻訳のなんたるかを私が理解しているわけではない。 ジェイン・オースティンやブロンテ姉妹のような古典的作品は、様々な方が翻訳を手がけられている。例えば、ジェイン・オースティンの『高慢と偏見』であれば、既に次のような訳がある。 高慢と偏見(平田禿木訳) 自尊と偏見(海老池俊治訳) 高慢と偏見(富田彬訳) 自負と偏見(中野好夫訳) 高慢と偏見(阿部知二訳) 高

ChatGPTは皮肉を理解する

先日、スティーヴン・キングのある小説の邦訳がけっこうダメだった、という記事を書いたのですが、その過程で気になったことがあったので ChatGPT に尋ねてみたところ、わりと面白かったので小ネタとして書いておきます。 文脈は、スティーヴン・キングの中篇「マンハッタンの奇譚クラブ」(原題:The Breathing Method、新潮文庫『スタンド・バイ・ミー 恐怖の四季 秋冬編』所収)の冒頭の会話文です。 語り手がクリスマス直前の雪の日にNYでタクシーに乗ったところ、運転手

タコス ❌ 独立記念日、スペイン語と日本語とAI翻訳アシスタント

9月15日、メキシコの独立記念日のイブにホームメイドのタコスを作って食べました。メキシコシティに住む友人が、タコスで祝ってほしいと言ってきたから。で、どうせならと、トルティーヤを含めてすべて手作りで、と決めました。スーパーマーケットでtaco kitを買って作ったことはありますが、手作りというのは初めて。うちにある材料のみで、なんとか作ってみようと。(あ、トッピング用のチーズがない、けどいいことにしよう) メキシコの友人アジエルとは、ほんの2か月ほど前に知り合ったばかりです

固有名詞と表意文字【ドイツ語】Gen(中沢啓治『はだしのゲン』)

『はだしのゲン』ドイツ語版の前書きより。 調べてみると、はだしのゲンの名前の由来は「元気」の「元」、何度踏まれてもしっかり根を張る「根」から来ているようだが、このドイツ語版の前書きでは「ゲン」の説明として、さらに「原爆」があげられている。 これまでまったく気が付いていなかったが、これは作者の意図だったのだろうか。 なおウィキペディアによると、タイトルは英訳版は Barefoot Gen(はだしのゲン) だが、フランス語版はGen d'Hiroshima (ヒロシマのゲン

美しい徒労-英訳版「雪国」再翻訳を通した言語考察

大学4年生の頃、友達とアメリカ旅行に行った際に、ポートランドの本屋で「雪国」の英訳版(E.G.Seidensticker訳)を買った。それ以降約5年ほどずっと積まれていたのだが、ようやく読もうという気になり、そしてそこから2週間ほどかかって先日ようやく読み終えた。さすがに英訳版のみでは心許なく、日本語版、つまり原文「雪国」(新潮文庫)とも照らし合わせながら読むことにした。当初は英語だけでは理解できなかった文を確認する、程度の使い方を想定していたが、いつしか読んだ英語を自分なり

翻訳書ができるまで② 翻訳出版の契約と編集、そして読者のもとに届くまで

さて、前回にひきつづき、翻訳書ができるまでにどういう仕事を出版社の編集者が行っているのかを、ご紹介します。翻訳書以外の本(主に人文書)ができるまでは、先日ご紹介しました。 また、前提知識として「版権エージェント」「出版エージェント」という仕事があることを、前回ご紹介したので、未読の方はまずこちらをお読み下さい。 翻訳書ができるまでのおおまかな流れは、翻訳以外の本と大きく変わるわけではありません。ただし、版権(翻訳権)の取得という手続きが含まれることに大きな違いがあり、その

デザイナーではない人間から見たデザインについての私見

デザインはdesign、英語からきています。日本語になっていなくて、そのまま音をとって「デザイン」として使っています。ぴったりハマる言葉がなかったからでしょうか。 では日本語でいうところのデザインと、英語のdesignは同じことを指しているのか。なんとなくのイメージでいうと、日本語の「デザイン」は、図案とか図柄、意匠といった見た目の形や色、模様を主に指しているような感じがします。 わたしは日本語で使われる「デザイン」という言葉の意味の範囲が、狭いのでは?と感じることがよく

テクノがアメリカでウケない理由

「テクノがアメリカでウケない理由」は裏返すと、なぜヨーロッパでテクノは人気があるのか?という疑問となります。 これは非常に単純明瞭で、欧州だと言語がありすぎるんですね。象徴的なのが欧州議会です。 欧州議会において発言者は欧州連合の公用23言語のいずれの言語でも発言することができる。すべての本会議においては同時通訳が提供されており、また法令の最終文書もこの23の言語に翻訳される。 23言語でやり取りしてるんです。フランス語で歌ってもドイツ語で歌っても、イタリア語で歌っても

crazyをどう訳す? これは差別語?

英日の翻訳をしていて、日本語にするのに困ることは結構あります。一つはその英語の言葉にあたる日本語(考え方、ものの見方)が存在しない場合。たとえばトランスジェンダー(英語圏では1965年ごろに造語された)とか。まあこれはもう、カタカナ表記で広まっているから、訳す必要はないとして。 title image : Insane graffiti, East London by duncan c(CC BY-NC 2.0) あるいは該当する言葉は一応あっても、=で結べない場合がありま

ヴェルレーヌ「月の光」(フランス詩を訳してみる 4)

ドイツの作曲家に一番愛された詩人がアイヒェンドルフだとすると、フランスの作曲家に一番愛されたのはヴェルレーヌではないでしょうか。象徴主義(サンボリスム)というとなにやら難しそうですが、日本でも上田敏訳の「秋の日の/ヸオロンの…」や堀口大學訳の「巷に雨の降るごとく」などで親しまれてきたように、難しいことは抜きにして気持ちよく口ずさめる詩を書いた詩人ともいえるかもしれません。  * 詩の翻訳のリクエストを受けつけてみたら、一番最初のリクエストとして、そんなヴェルレーヌの詩「月

演奏と翻訳は似てる?......再創造とは

「再創造」って英語だとなんて言うのかな、と。recreation?でもこれだとリクレーション=気晴らし、娯楽、保養と同じになってしまう。でも二つ目の意味として、再構築、再現、作り直しの意味もあるようです。(英辞郎) Oxfordの辞書で確認してみたら、こちらでも二つの意味があって、ほぼ同じ。 1. [名詞] Activity done for enjoyment when one is not working.    (仕事以外の楽しみの活動)  2. [名詞] The a

鷗外とその家族② 鷗外の言葉選び

明治の文豪として知られる森鷗外は、素晴らしい翻訳を数多く残しているが、その業績は著述の影にかくれているのか、小説ほどは広く知られていないように思う。高校の教科書で「舞姫」を読んだとき、出世や家族との関係と、エリスへの愛情との間で板挟みにあうのです、とせっかく明治になったのに前時代の世話物のような解説を教師から聞いたのをはじめ、安楽死を扱った「高瀬舟」、性の目覚め(中年の女教師がカッと目を見開き、ものすごく甲高い声で言ったのがすごく嫌だった)を描いた「ヰタ・セクスアリス」、「渋

消えてしまったことばの世界を覗く 山口仲美『日本語の歴史』

 山口仲美『日本語の歴史』は、タイトルの通り、奈良時代から明治時代、そして現代までの日本語がどのような変化をしつづけてきたのか、その歴史を紹介する本だ。  ことばの変化、と聞いて思い浮かぶのは「死語」ではないだろうか。ちょっと前まで使っていたことばで、もう使われなくなったことば。たとえば、昔、ほんの冗談で「Aさんは、お花を摘みに行ったよ」と言ったら、職場の後輩にきょとんとされたことがある。その顔を見て、これが死語か、と思った。しかし、ここでいう死語は、あくまで単語のレベルに