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第28回 鴨長明の幽玄論 【早稲田の古文・夏期集中講座】

鴨長明は『無名抄』で「幽玄」について述べています。
「近代の歌体」という長い文の中で、「幽玄の体」について「言葉に現れぬ余情よせい」「姿に見えぬ景気なるべし」としています。(『無名抄』久保田淳訳注 角川ソフィア文庫)

鴨長明は、次のような例をあげています。

たとえば、秋の夕暮れの空の気色けしきは、色もなく、声もなし

『無名抄』久保田淳訳注

ここでは、夕暮れを「色もなし」としています。
現代人はともすると、夕暮れという言葉に鮮やかなオレンジ色をイメージするのかもしれません。
「色もなし」ということは、黒と白の陰影と濃淡だけの世界のことを表していると考えられます。
水墨画のような世界をイメージするとわかりやすいでしょう。
光と闇を考えたら、圧倒的に闇の方が多いはずです。
幽玄の「玄」という字は、本来「黒い」という意味なので、「幽玄」とは、かすかな玄《くろ》い世界を表す言葉だからです。

「声もなし」とは、音のない「静寂の世界」のことです。
それは、鳥や鹿の鳴き声もしない静かな世界です。
視覚や聴覚を絶した「無の世界」と言い換えることもできるでしょう。
この言葉で、「静寂夢幻の世界」「玄々妙々の世界」を表現しているのです。

逆に、「幽玄」の心の分からない者については、
「これを心なきつらの者は、さらにいみじと思はず、ただ目に見ゆる花紅葉をぞで侍る」と批判しています。
目に見える、きれいな桜の花や紅葉をでているようでは、「心なき者」なのです。
定家が「見わたせば 花も紅葉も なかりけり」と歌ったのが、まさに幽玄体と言えるでしょう。

すべては、心ざし言葉に現れて、月をくまなしといひ、花を妙なりと讃めむことは、何かは難からむ

『無名抄』久保田淳訳注

と鴨長明が言っているように、「満月の美しさ」「満開の桜の美しさ」を誉め讃えることは誰にでもできることであって、そこには、新しい文化芸術を作りだそうとする創意工夫が何もないことになってしまいます。
見たものを、何の工夫もなく、そのまま言葉にしているだけでは、芸術性や創造性がないのです。
そこには、兼好法師のように「花は盛りに月はくまなきをのみ見るものかは」という姿勢が必要なのです。

鴨長明は、次のような言葉で『無名抄』を締めくくっています。

いづくかは歌のただものいふにまさる徳とせむ。ひと言葉に多くのことわりを籠め、表さずして深き心ざしをつくし、見ぬ世のことを面影に浮かべ、卑しきを借りて優を表し、おろかなるやうにてたへなることわりを究むればこそ、心も及ばず、言葉も足らぬ時、これにて思ひを述べ、わづかに三十一字がうちに天地あめつちを動かす徳を具し、おに神を和むる術にては侍れ

『無名抄』久保田淳訳注

一文字に万意をこめる「広がりと奥深さ」、言葉に出てこない「深い情緒とこの世ならぬ世界の幻影」を描き出し、卑近なようで高貴なもの、粗雑に見えて霊妙な道理を極限まで推し進めるからこそ、わずか三十一文字で「天地を動かし鬼神を感動させる歌となるのだ」と、彼は言っているのです。
ここに「天神地祇の神々が感動し、天地鳴動させる言霊ことだまの霊力を生み出せ」という彼の理想が現れています。
これこそ、古今集以来の「和歌の伝統」と言うことができるでしょう。

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