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J・S・ミルの婦人参政権運動

1867年5月20日。
イギリス議会史上初めて「婦人参政権」を認める「選挙法改正」法案が提出されました。
選挙権資格を「manマン」から「personパースン」に変えるという、たった一語を修正するという内容の法案だったのですが、最終的に「賛成=73票、反対=196票」という結果で否決されました。
この法案を提出した人物こそ、「自由論」で有名な思想家=ジョン・スチュワート・ミルです。
このことは、岩波新書の「J.S.ミルと現代」(杉原四郎著)で詳しく紹介されています。(同書P.44)

イギリスの「婦人参政権」は、1918年に認められています。
それは、ちょうど第一次世界大戦の真っ最中でした。
そのころ日本は、「シベリア出兵」「米騒動」「寺内内閣総辞職」「原敬政党内閣誕生」などが次々と巻き起こる激動の時代となっていました。
後に「大正デモクラシー」と呼ばれるようになるこの時代に、ミルの翻訳本が続々と出版されています。
1914年(大正3年)に、「自由論」の三冊目の翻訳となる「思想言論の自由」(平井廣五郎訳)が出版されたのをきっかけとして、大正10年(1920年)代に6冊(7点)の邦訳が刊行されました。

中でも注目すべきは、1869年に出版されたミルの著作「婦人の隷従」が、3種類の翻訳で出版されていることでしょう。
 ①野上信孝訳「婦人解放の原理」1921年
 ②大内兵衛訳「婦人解放論」1923年
 ③片口泰二郎訳「女性は征服される」1923年
この1920年代は、日本でも婦人参政権運動の高揚期にあたります。
というのも、1900年に公布された治安警察法の第5条に、「婦人の政治活動を一切禁止する」という女性差別条項が公然と規定されていたからでした。その条項は、平塚らいてうさん等が結成した「新婦人協会」などの努力によって、1922年3月に削除されています。
その後、1924年には「婦人参政権獲得期成同盟会」が結成されました。
ミルの「婦人の隷従」を翻訳した本が相次いで出版された背景には、このような時代の風潮が大きく影響していたことは間違いありません。

ひるがえって21世紀となった現代の状況はどうでしょうか。
国会議員総数における女性の比率は10%以下となっており、世界と比較しても下位の部類にあたります。
アフリカ諸国では、女性議員の比率が50%を超える国もあるそうです。

私が子供の頃には、平塚らいてうさん等と一緒に活動していた故・市川房枝ふさえさんが、現役で活躍していました。
動乱の歴史の中で大きな成果をあげてきた、その威厳のある風貌には、思わず畏敬の念を抱かざるを得ないものがありました。
多くを語らずとも、顔が全てを物語っていたからです。
口先では何とでも言えるでしょう。
しかし、威厳ある風貌は、一朝一夕では出来上がりません。
リンカーンの「人は40歳を過ぎたら顔に責任をもて」という言葉は、まさに、このことを言っているのです。

今の女性議員を見渡してみても、市川房枝さんのように存在感のある人はほとんど見当たりません。
現在では、その知名度から元アイドルやタレントが政治家となる場合が多いのですが、そのような価値基準で選んでいたのでは、一国の命運を担うに相応しい人材とは言えないでしょう。
平塚らいてうさんや市川房枝さんのように、ミルの翻訳本を読みこなすレベルの知性と教養に裏打ちされた、確固たる威厳を持った人物こそが、国政を担うべきなのです。
政治家を目指しているのであれば、試みに、下記のリンクにある「思想言論の自由」を読んでみるとよいでしょう。

これがスラスラと読めるようであれば良いのですが、そうでなければ、古典をもっと学び、慣れ親しむべきです。
そうすることによって、顔つきも変わり、周りから一目置かれる人物に近づくことができるでしょう。


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