渋谷教育学園幕張中学校 国語過去問 赤瀬川原平 「千利休 無言の前衛」 岩波新書
渋谷教育学園幕張中学校(以降、渋谷幕張中)で平成27年、赤瀬川原平さんの「千利休・無言の前衛」(岩波新書)が出題されました。美大出身の芥川賞作家で映画「利休」の脚本も書いた人です。
お茶室での茶事は、その流れの中で手が囁き、物が呟く、それがそのまま会話となるのであるから、日常生活に対比すれば口数の少ない、無口な世界だ」とあります。(同書P17)「利休が茶によってあらわそうとするものが、無口を原理とするほかはなかったものだ」「そもそも芸術は言葉で説明できない」としています。(同書P17)
なんでも言葉で説明しないと存在しないという考え方は、極めて西洋的、即物的なものの考え方と言えます。それは、旧約聖書にあるような「はじめに言葉ありき」といったキリスト教的価値観です。ものの存在とは、ものの本質とは、言葉より前にあったのです。言葉によってものの名前をつける前から、存在したのです。言葉に本質は存在しません。
赤瀬川さんは「千利休は、そのような無口な世界で能弁であったと思う」と述べています。(同書P20)この能弁とは、言語化できない世界で人々に訴えかける存在感の大きさを物語っているのでしょう。手の所作の一つ一つが無限の大宇宙に比すべき、極大の世界を示す芸術性を表現したかったのではないでしょうか。二畳の茶室で極大の大宇宙の星雲・星座の星々の輝きを表現しようとしたのでしょう。言わないとわからないのでは、とうてい通用しない世界です。
利休の沈黙という第Ⅲ章では「物の新しさは簡単に言葉で説明できるが、それを見る目の新しさ、味方の新しさは説明しにくい」としています。(同書P203)そして「新しい価値観の生まれてくるような世界にあっては、言葉というものの乱暴さばかりが目に付くのである。どのように丁寧な言葉を心がけても、言葉の存在自体が乱暴になっていく。何ごとかを言葉に託すごとに、その言葉に、裏切られる。そして沈黙が生まれる」としています。(同書P204)
1967年の映画でダスティン・ホフマン主演の「卒業」という作品があります。その中で使われた曲に、サイモンとガーファンクルの「サウンドオブサイレンス」(沈黙の音)というのがあります。人々はスピーキングしないでトーキングしている。人々はリスニングしないでヒアリングしている、と歌っているのです。無意味で無内容な会話に終始している人々の世俗的なありさまを歌っているのかもしれません。この意味で人々の会話が放つ音(サウンド)は沈黙(サイレンス)と同じだと言っているのかもしれません。
沈黙ほど雄弁なものはありません。人々は沈黙に耐えられません。沈黙は千言万言に優ると言えるでしょう。本質的な存在は黙して語りません。大音稀声、大象無形なのです。黙して語らぬ本質存在の音を聞くことのできる人は聖人と言えるでしょう。