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「真の自由人」の生き方 【セネカ『人生の短さについて』岩波文庫】
もし君が自由であろうと望むならば、哲学におもむけ。
それ以外の道では君は自由を得ることができない。
セネカは「哲学者こそ真の自由人だ」という主張をしています。
その根底には、「人は肉体をもって生きている限り、不自由極まりないのだ」という価値観があります。
生きている以上、食欲をはじめとして、さまざまな欲望を満たすことを目的として、多忙な毎日を送ってしまうという面を否定することはできません。
しかし、そのことが「真に生きる」ということを分からなくさせてしまうのです。
多忙な人間には何事も十分に成し遂げることは不可能である。・・・
実際、多忙な人にかぎって、生きること、すなわち良く生きることが最も稀である。・・・
また生きることを学ぶことほどむずかしいことはない。・・・
生きることは生涯をかけて学ぶべきことである。・・・
生涯をかけて学ぶべきは死ぬことである。
これと同じ主張は、モンテーニュの『エセー』でも見ることができます。
キケロは、哲学をきわめるとは死の準備をすることにほかならない、と言った。
世のあらゆる知恵と理論が、結局は、われわれに死を少しも恐れないように教えるという一点に帰着するからである。
その生涯を、衣食住の欲求を満たすことだけに費やしてしまう人は少なくありません。
「衣食住の満足」=「幸福な人生」と考えている人たちに対して、哲学の必要性などをいくら説いたとしても、決して理解されることはないでしょう。
J・S・ミルが「満足した豚であるより、飢えたソクラテスであれ」と言ったのも、そのような世間の人たちの様子を見ていたからかもしれません。
これは洋の東西を問わず、ある意味、普遍的なことだったようです。
疏食を飯い水を飲み、肱を曲げてこれを枕とす。
楽しみ亦た其の中に在り。
不義にして富み且つ貴きは、我に於て浮雲の如し。
(訳)
粗末な飯をたべて水を飲み、うでをまげてそれを枕にする。
楽しみはやはりそこにも自然にあるものだ。
道ならぬことで金持ちになり身分が高くなるのは
私にとっては浮き雲のように、はかなく無縁なものだ。
生活の中に「文化」がなければ、ミルが言うように「豚」と同じです。
文化とは、「学問」や「芸術」のことです。
学問の中で、「『哲学』こそが最高のものである」というのが、ギリシャ・ローマ時代から二千年以上にわたって、西洋の伝統を形成している普遍の真理と言えるでしょう。
セネカは主張します。
幸うすき人間どもにとって、まさに生涯の最良の日は、真っ先に逃げていく。
毎日毎日を最後の一日と決める人、このような人は明日を望むこともないし恐れることもない。
「今日が人生最後の一日だ」と覚悟して生きている人にとって、「毎日は人生最後にして最良最善の日だ」と言えるでしょう。
朝に道を聞きては、夕べに死すとも可なり。
これこそが、生にも死にもとらわれない「真の自由人」(=哲学者)の生き方なのです。
タイトル画像:Luca Giordano 「Death of Seneca」