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早稲田の古文 夏期集中講座 第30回 『増鏡』後醍醐親政

 『増鏡』では、御醍醐天皇親政期の繁栄の様を描く所があります。たとえば、「十五夜歌合」という記事がそれです。元享元年(1321年)、天皇三十三歳の時です。

「院にも内にも、朝政(あさまつりごと)のひまひまには、御歌合のみしげう聞こえし中に、元享元年八月十五日かとよ、常よりことに月おもしろかりしに、上、萩の戸に出でさせ給ひて、ことなる御遊びなどもあらまほしげなる夜なれど、春日の御榊(さかき)、うつし殿におはしますころにて、糸竹(しちく)の調べは折あしければ、例のただうちうち御歌合あるべし、とて侍従の中納言為藤、召されてにはかに題奉る」

 後宇多法皇も、御醍醐天皇も、御政務のひまひまに歌合(うたあわせ)を頻繁に行ったというのです。

 歌合(うたあわせ)というのは、左右二つのチームに分け、歌の優劣を競う試合のようなものです。古語辞典の解説によると、歌題による歌が多く、前もって出しておく兼題(けんだい)とその場で出す即題(そくだい)がありました。

左右に競技者としての『方人(かたうど)』を選出し、それぞれの方人(かたうど)の統率者は頭(とう)と呼ばれ、方人のほかに応援者としての『念人(ねんにん)』を置くこともありました。

そして『講師(こうじ)』という人が歌を読み上げて、『判者(はんじゃ)』が勝・負・持(引き分け)を判定するのですが、判者は二人で行う『両判』ということもあれば、『衆議判』といって、左右の方人の合議で行うこともあったそうです。(旺文社『古語辞典』松村明・今泉忠義・守随憲治編)

 判者は藤原俊成のような、当代の名人級の人が務めることも多いので、判者の判定基準となった「判詞(はんじ)」は現在でも歌学史研究の好資料であるとされています。(同書による)

 特に、大事なのは八月十五日という時期です。「常よりことに月おもしろかりし」時だったのです。ただの満月ではなく、今の天文学でいう「スーパームーン」だったのかもしれません。そんな科学的分析をすることに頼らず、人の情緒的感性で、歌合という文化事業を天皇自ら行うことが、素晴らしいことなのです。

 またこの時、春日大明神の神霊の宿る神木ともいうべき榊を「うつし殿」に移しているので、派手な歌舞音曲は控えた、というのです。御神霊に失礼なきよう、という細やかな配慮によるものです。

 このあと衛士が火をたいて明かりとするのですが、その火も控え目にした方がよいという調子です。せっかくの中秋の名月の鑑賞に邪魔になるだろう、という配慮です。寝殿造の庭には池がありますから、その池の皆もにうつる名月を楽しもうという趣向もあります。すべて歌の素材となるのです。

 この日は池に舟を浮かべて、左右の講師(こうじ)である隆資・為冬を、乗せたとあります。

 「御みきなど参るさまも、うるはしきことよりは艶になまめかし。人々の歌いたく気色ばみて、とみにも奉らず。いと心もとなし。照る月波も曇りなき池の鏡に、いはねどしる秋のもなかは、げにいとことなる空の気色に月もかたぶきぬ。明け方近うなりにけり」

 月の出と共に歌合は始まり、月の入りとともに会は閉じたのでしょう。空に照る月が映える池を鏡と見ているのです。後醍醐天皇の御製歌は次の通りです。

 鏡の音(おと)も かたぶく月に かこたれて 惜しとおもふ夜は 今夜(こよひ)なりけり


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