毎日投稿を止めて、文を書けなくなった人のための文章論
毎日連続投稿をあえて止めた
私事ですが、毎日連続投稿を終わらせてから3日が経過しました。
私は、8月31日であえて毎日連続投稿を終わらせました。通算135日目でした。
ここ2,3日、投稿はしてなかったけど、ちょこちょこ他の方の投稿は読んでました。なんだかんだコメントもしてしました。
それを読んで、触発されてなんか記事を書いてみてもいいかもと思ったりもしました。勢いでつぶやきくらいはしてしまいそうでした。いつも書いていた感じの記事をまた書けちゃいそうだな、やっぱ書いちゃおうかなって思ったりもしました。
でも、あれだけはっきり毎日連続投稿を終わらせますと言ってしまったので、言った翌日にちょっとした記事を書いたり、勢いでつぶやいちゃったりするのは、さすがに恰好がつかないよなぁなどと思い、ここ数日、投稿はしませんでした。
8月末日という2024年夏の終わり、66日ライランの最終日、自分が連載していた小説の最終回の投稿日、あ、あとそれから、ちょっと気合を入れて出してみたコンテスト「私はなぜ書くのか」の落選(笑)。8月31日はいろんな意味でピークに当たるタイミングでした。もし、連続投稿を止めるんだったらこの日以上のタイミングはもう来ない、そう思えました。
だから、もうちょっと続けられそうだけれど、ここで止めようって自然に思えました。
連続投稿は続けようと思えば、続けられそうだったけど、あえて止めた――
意外とそういう人って少ないのかもしれません。
ここで一回止めることができて本当に良かったと思いました。
実際、なんとなくフェードアウトしたり、不本意な形で連続投稿が終わってしまう人も多いと思います。そんな中、自分は納得するタイミングで、止めることができた。記録される連続更新は、機械的でとても無常だから、ちょっとのアクシデントで止まりかねない。そんななか、あえて止めることに意味を作れたことはとても幸せなことだった気がしています。
区切り。
noteって意外と縛りが多くて、1記事を書こうとするとタイトルと本文は記載する必要があります。ある記事とある記事は、絶対に分断をされるんですよね。連載形式にしたとしても、タイトルと本文の1記事セットは分断される。そして、1記事のタイトルをクリックさせて、本文を読ませるという仕様です。ここは基本的に変えられない。
毎日noteをやってみて、実は、一つひとつ分断した記事につながりを持たせるのが、連続投稿の醍醐味なのではないかという気がしました。
連続投稿をするから流れが生まれる。流れがあるから、着実に時間が進んでいることが分かる。
4月から「今日一日を最高の一日に」をコンセプトに毎日連続投稿を続けてました。最初は、「とりあえず毎日続ける」だけでした。
でも、66日ライランに参加したとき、毎日投稿の意味は、「8月31日まで続ける」に変わりました。終わりなき旅に、一つの終わりができました。
連続投稿って続けるのが目的じゃないですか。でも、今回は8月31日で止めるのが目標になった。8月31日に終わらせるって決めたから、「なんとなく書く」から一歩進んで、「いろいろ試してみる」ことができた。
で、区切った。
区切っても、時間は淡々と変わらず流れ続ける。けど、連続投稿で生まれた「流れ」は、自分で止めることができるということに気づきました。そして、自分の意思で止めたのならば、「止める」ことに意味を持たせることができる。
一つひとつの分断した記事は、連続投稿を自分の意図で止めて、区切りを作ることで、初めて連続させた意味ができるのかもしれない。そうしたら、「1記事はタイトルと本文のセット」というnoteの限界を超えられるかも、でもこれってそれこそ一朝一夕じゃできじゃないし、何回もできることでもない。
今回はちょっとだけ、それができた気がする。
自分的にはこの感覚を味わえたのがこの上なくうれしかったのです。
(これは伝わるのか……??)
でも、いいことばかりじゃありませんでした。
次、なに書くの?
毎日連続投稿を止めた次の日は、いつも通りだったら、全然書けそうだったんですよ。
でも、何かいつもみたいに軽い気持ちでは書き出しづらくなってしまった。
数日経って、いろいろ書くことは浮かびました。でも、前回は、あえて止めたのに、今日あえて書き出すのには、ちゃんとした理由が必要な気がしてしまった。
要は、なんとなく止めていたら、なんとなく始めやすかったんだけど、あえて止めたもんだから、あえて始めるにはどうしたらいいのかわからなくなっちゃったんですよね(笑)
それで、自分の場合は、ある本を読むことにしました。
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誤解を恐れずにいうと、若松英輔さんの本ってちょっと苦手だったんですよね。割とライトだけど、なんかちょっと説教臭く感じてしまうときがあるというか、ファジーだし、答えが早く知りたいゆとり世代が求めている明確な答えを出す気配が全くない(笑)。
たぶん、この本はいままでの私だったら、スルーしていたと思うんです。
ただ、今回は意外にも(?)読んで良かったと思えた。
普段はあまり感じることのない特別な感情に至ったときに、読んでみるとすごくいいかもしれないと思いました。
それは、どういうときかというと、例えば、noteを毎日連続投稿していて、それをあえて止めてみたんけどそのあと何を書いたらいいのかわからなくなってしまったようなとき(笑)、そんなときに読んでみるのがおススメです。
正直私は、最近、「本を読めなくなった人」になっていました。これはかなりの割合でnoteのせいです(笑)。積読が爆増しました。読みたいけど読めないんですよね。皆さんのnoteの記事を面白くてついつい見ちゃう。で、そのnoteがまた面白そうな本をオススメしている。また、積読が増える。最悪です(笑)
若松さんは、聞こえるか聞こえないかわからない小さな声を聴こうとするんだと思います。もう一度言うと「聞こえるか聞こえないかわからない」んですよ。聞こうとしてもあまりにも音が小さすぎて聞こえないかもしれない。それどころか、そこからはそもそも何の音も出ていない可能性すらある。でも、聴こうとする。あ、ちょっと聴こえたかも。やっぱり聴こえなかったか……。
タイパ重視の人からしたらイライラしてしょうがないと思います(笑)
で、「聞こえなかったら聞こえなくてもいい」「聞いてもいいし聞かなくてもいい」「最初から聞かなくてもいいし、全部聞かなくてもいい」「今日は聞こえるかもしれないし、偶然かもしれない」、みたいなことをいう。マジで何一つ「答え」を出していません(笑)。
じゃあ何がいいのか?
私は、実際に聞こえたかどうかよりも、「聞いた?」って素朴な状態になっていることに意味があるということをいいたいんじゃないかと思っています。
例えば、今、耳を澄ましてみる。私には、エアコンが回っている音が聞こえます。何の音かわからないけど、たぶん、虫がチリチリ鳴いている音が聞こえます。パソコンの電子音が聞こえます。
素朴に耳を澄ませると、「音が聞こえる」。
これを全部「読む」に置き換えたのが、「本を読めなくなった人のための読書論」ではないかと思います。
素朴になったんですね。
つまり、「読んだ内容から何を得たか」とか「読めたのか読めなかったのか」とかではなく、「読んだ?」という素朴な行為に一番重きを置いているのではないかと思います。
耳を澄ませば何かの音が聞こえるように、「読む」。
「結果重視」でも「プロセス重視」でもない……じゃあ何なの?
素朴になる。素朴に言葉を見つめている。言葉に対して素直になる。
ホント生産性重視の人には耐えられないですよね(笑)
しかし、マジで何の生産性もないその営みを味わったとき、遠くで虫や鳥が鳴いている声に気が付くように、書物は何かを語り始める。気がつくとなぜか、いつの間にか、コスパ重視のときよりもずっと深い位置にいることがある。
これを全部「書く」に置き換えたのが、本記事のタイトルの「文を書けなくなった人のための文章論」ではないかと思いました。
「書く」ことから始める「読書」があるならば、「読む」ことから始める「執筆」もある。
本書では、「読めなくなったら、書いてみたらいいかもしれない」というようなことが書いてあります(ここもはっきりしないんですよねこの人(笑))。
「読む」ことと「書く」ことは呼吸のような関係。
深く息を吐けば、自然に深く吸えるようになる。気分が落ち着かないとき、深呼吸をすると、ふと視界が開ける。このことは「読む」ことと「書く」ことの間でも起こる。
であれば、「書けなくなったら、読んでみたらいいかもしれない」。
「結果重視」でもなければ「プロセス重視」でもない。
素朴な「書く」行為。
「書けないとき」無理に書こうとしてもなかなかうまくいきません。そんなときは、読んでみたらいいかも。思いっきり吸えば、自然と吐けるようになる。
「書けなかったら書かなくてもいい」「書いてもいいし書かなくてもいい」「全部書かなくてもいい」「今日は書けるかもしれないし、それは偶然かもしれない」「ゆっくりでいい」
「マジで、何の生産性もないし、タイパも悪いし、何の明確な答えも出してくれないな!」
「で、何?なんかわかった?」
「あーもう、なんでも書いてよさそうな気がしてきたよ」
そんなわけで、新シーズンは新感覚で「今日一日を最高の一日に」