「人には人の都合がある」が腑に落ちたら生きるのが楽になった
(1575文字 読了目安2分)
今回書かせていただいたテーマは「日頃の人に対するイライラが少し和らぐ考え方」です。
人の行動、言動や態度、人から言われた事にイライラし過ぎてしまうことはないでしょうか?
僕も以前かなりあったのですが、この「人には人の都合がある」という言葉が腑に落ちてからは以前より人に対してイライラすることが少なくなりました。
腑に落ちた理由は色々ありますが、初めに考えることになったきっかけは妻から聞いた、とある話です。
この話が実話かどうかは知りませんが、少なくとも周りの状況に振り回されないという事に対してヒントにはなると思います。
.....
とあるバスの中で、座席に座らずにうろうろして、騒いで遊んでいる4-5歳の男の子がいました。
男の子のお父さんが座席に座って注意もせずにぼーっと子供を見ています。
車内では、あの父親は子供がうろうろして騒いでいるのに注意しないのか..
という空気が漂います。
遂に堪忍袋の緒を切らせた年配の男性が父親に注意します。
「あなたの子供でしょう。みんなが迷惑していますよ。子供に注意して座らせなさい。」
車内はピリッとした空気が流れると同時に、やっと注意してくれる人が現れたと、若干安堵の空気が流れます。
しかし父親が発した言葉は、
「今から病院に荷物を取りに行くんです。あの子の母親が亡くなりました。あの子はまだ知りません。今からあの子に説明しなければならないと思うと、楽しそうにしている姿が悲しくて注意できませんでした。本当にすみませんでした。」
車内は凍り付きました。
......
どうでしょうか。
周りの迷惑を考えない子育てにだらしない父親、故に躾のなっていない子供、という印象からがらっと変わったのではないでしょうか。
目に見えている状況というのは、実際のところ、その当の本人にしか本当の事情はわかりません。
「人には人の都合がある」
目の前の状況にどんなストーリーがあるかはわかりません。
見えているのは表面であり、あなたのフィルターを通して、快、不快が決まります。
ただ、迷惑行為は注意する、その行動は社会通念上も倫理上も正しい行為です。
今回の話はそれを否定するものではなく、人の言動にイライラと反応してしまうことは無意味なことかもしれないという話です。
そうすれば周りの状況に振り回されず、自分の目的、自分の人生が生きやすくなるかもしれません。
僕は以前家族を恨んだ時期がありました。
しかし、その家族にも親や兄弟、友人や影響を受ける人、育った環境などがあって様々な状況があります。
一概にその人のせいにしても仕方ありません。
覆ってみると果てしないです。
人に振り回されたり、人のせいにするという事は、覆って、覆ってみてみるととても意味のないことだと思います。
また、人があなたを非難する時、様々な理由がありますが、あなたに対してでは無く、言った本人自身に向けて言っていると思うとどうでしょうか?
例えば、あなたが仕事でミスをしたとします。
そして「やってしまった」と苦笑いを浮かべたとします。
そこへすかさず同僚がやってきて、「ミスをしたのに笑うなんて信じられたない」
とあなたを非難したとします。
同僚は「ミスをした時に笑みを浮かべるなどしてはいけないのだ」という固定観念を自身の中で積み上げてきたことで、そんなことはあってはならないと自分に対しても非難の感情を向けていることに他なりません。
この固定観念は過去にどのような人生を歩んできたか、どんな体験からもたらされたものか、人それぞれです。
どうしてもその人はあなたの行動、言動が許せなかった。注意せざるを得ない程に見過ごせなかった。自分の固定観念に引っかかるものがあった。
動揺しているのはどちらでしょうか?
あなたにコントロールされてるのは向こうの方ですね。
逆の相手の言動や態度にイライラするということは、自分が相手を許せないという何らかの信念を持っているということです。
これでは相手にコントロールされてしまいます。
その信念はどこから来るか、というと以外とちょっとした昔の体験からくる固定観念だったりするものです。
「自分を許せば、相手を許せる」
「人には人の都合がある」
これらが腑に落ちてから、相手にイライラすることは以前より少なくなりました。
決して、性格が穏やかとか、優しいとか、相手を思いやっているとかではなく、自分を許しているという事であり、相手にコントロールされたくないという自分の為です。
では今回もお読みいただきありがとうございました。
ことり 拝
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いつもお読みいただき有難う御座います。私の目標は人が自分らしさを発揮して生きている社会をつくる事です。