日日是好日
「毎日がよい日」。日日是好日にはそういった意味があるそう。
毎日がよい日であることは、なにも特徴的なことがあったとか、期待していたことが現実に起こったとかそういったことではない。「よい日である」と思うことが毎日がよい日、となる種子なのだろう。
日日是好日
日日是好日は禅語のひとつなのだそう。雨の日も、雪の日も、なにもない日も、悲しい日もそれら一つひとつをありのまま受け入れ、一日をありのままに過ごすといった意味に解釈されると考えられている。
そんな禅語をタイトルに借りて書かれた森下典子さんのエッセイ『日日是好日-「お茶」が教えてくれた15のしあわせ-』は個人的にお気に入りのエッセイのひとつ。映画化もされているとのことで、先日やっと鑑賞した。
ここからはエッセイ、映画どちらも絡めた感想です。
心穏やかになど生きられはしない
二十歳を超え、お茶の教室に通うことになった筆者は、その後十数年にわたってその教室に通い続ける。最初はお茶なんてと思っていた筆者は通い続け、季節によって様相を変えるお茶の世界を少しずつ理解していく。
どんな日も教室に通い続ける姿がとても印象的だ。大学を卒業してからも、就職に悩んでいる時も、長く付き合った人と破局した時も、大切な家族が亡くなった後も、筆者は教室に行き、お茶をたてる。「お茶を淹れないと落ち着かない」までにお茶がその人の人生に入り込んでいる。
エッセイでは通い続ける中で変化する心の機微が詳細に語られているが、映画ではそれが音として表現されているように感じた。自分がいる環境の音に、自分の心が寄っていくのだろうか。
春には風がさあっと駆け抜ける音、梅雨には雨粒があらゆる場所に当たり、夏には近いような遠いような不明瞭な距離で鳴くセミの鳴き声に耳をすまし、秋は枯れ葉が風で舞っていてカラカラと音がする。そして冬は無音という音が聞こえてくる。
映画では季節ごとの特徴といえる音がよい意味で強調され、その場にセリフがなくても主人公の気持ちがなぜか分かるような気がしてしまうのだ。
いつでも心穏やかであれ。嬉しいことがあった日も、悲しいことがあった日も、なにもない日も、お茶をたてて心穏やかにその日を過ごすべし。お茶からはそんな声が聞こえる。そんな心をもてたらとてもいいだろう。
でもそんなことは無理だ。一生懸命に生きようとすればするほど、心穏やかには生きられないことを痛感する。しかしこれは日日是好日を諦めることではない。日日是好日でいたいからこそ、波立つ自分の心も大事にしたい。「毎日がよい日」と思う心と、「人生なんて最悪」と思う心は共存できると考えているからだ。というより共存するべきだ。
この作品への批判ではなく、ひとつの提案だ。どちらかひとつを選ぶことに固執はせず、両方選んでもいいのではないだろうか。最悪な日だ、と思いながらも自然に触れたり、少しでもよいと思うことがあれば、毎日がよい日だと思い直すのは全然間違いではない。人間の複雑な心を考えればなしではない選択だ。
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