雑記50 ゴッホ書簡全集についての感想。テルステーフについて。
雑記50 ゴッホ書簡全集についての感想。テルステーフについて。
目安文字数 4200
■前置き1
ゴッホについて。
ことわる必要もないと思うが、「ゴッホ」とここで言うのは、フィンセント・ゴッホのことである。
弟のテオについては、テオとか、弟と書く。
(オランダ語だと例えば、vin の字は フィン となる。
vincent → ヴィンセントと表記する例もあるが、
ゴッホ書簡全集 みすず書房 の表記にならい、フィンセントと書く。)
■前置き2
あれこれと文章を書いて、最後にこの前置きを書いている。
画家のゴッホについて、心の中にある材料をあれこれ書いたが、結論めいたものとして自分が抱くようになった考えは、結局、自分はもっと深くゴッホの書簡集を読み込んでいった方が良い、ということである。
「耳をすませば」の雫のセリフで
「文章を書いてみて、初めて自分はもっと勉強をし、もっと多くを学ばなければならないことがよくわかった。」という意味のものがある。
雫が小説を始めて書いて、せいじ君の おじいさんにそれを見せた後の話である。
自分も今それを思う。
それはともかく、以下に、ゴッホにまつわる、自分の心の中に浮遊している想念を書き留めた。
このことを書いたことで、自分の心は、「少し前よりも"気が済んだ" 」ように感じている。
■1 ゴッホの名前は、世の中でよく耳にする
ゴッホの名前は、世の中でよく聞く。
ゴッホについて、友人や知人が語るのを聞くこともそう少なくない。
ゴッホについて、人が語るのを聞くことが何度もあるが、ゴッホの書簡集の中で頻繁に名前が出てきて、ゴッホの心や神経を「逆撫でし続けた」と思われる「テルステーフ」の名を、語る中で耳にすることは今までない。
また、「マウフェ」や「ルーラン」について語られるのもほとんど聞いたことがない。
(イスラエルス、ラッパルトについても。)
ゴッホの書簡集を読んでいると、テルステーフという名前は、「実に悔しい男」という感じがする。
世間並みに生きることが、どうしても不思議とできないゴッホにとって、おそらく「「世間並みに生きる」ということと全く一致した人間」 の一人としてテルステーフが色々な場面で「通せんぼ」をしてくる、
というように自分には感じられるのである。
テルステーフは、「耳をすませば」の表現を借りれば、端的に言うと、「なんという「やなやつ」」なのである。
しかし、テルステーフが、ゴッホ(フィンセント)を煙たがるのもおそらく実地でものを見れば無理はないのかもしれない。
■2 ゴッホ書簡全集からの引用
ゴッホ書簡全集 2巻 から引用: 引用700文字弱
「静かに仕事を続けて行けば、けっきょくはまったく新しい友だちづきあいもでき、マウフェに テルステーフそのほかの連中の同情は失ったけれど、それのつぐないはそこでつけたいという希望、その希望をぼくはことごとにかけている。でも ことさら そのために手段を講じるつもりは全然ない これは仕事を通じて おのずから得らるべきものなのだ。
ぼくにとってテルステーフとのあいだに起った事態はちっとも異常なしものではない。誰しも生涯にはこうした目に逢うものだ。どこに責任があるかは、はっきりとは誰にも指摘できないのだ。 しかし ことテルステーフのばあいに関しては、昔のいざこざが問題なのだ。だいぶん前に彼(テルステーフ)がぼくのことについて言ったことが、ぼくを不利な立場に置くのに少なからず役に立ったことは ほぼ確実だ。でもそのことを気にかける必要はない かつて ぼくを傷つけなかったものが、今さらぼくを傷つけられはしない。
アトリエへ来てもらえたら、彼(テルステーフ)が「ああ!お前の素描なんか けっきょく何にもならずじまいだろう」と言うばあい、それが実際ばかげた言い草である点を、きみ自身(テオ)でたしかめられるだろう。ただこうした批評に反駁することはひじょうにむつかしい。それをやると立ちどころに うぬぼれ者呼ばわりをされ、最大の芸術家の名前をあれこれ引きあいに出されて「あいつはそういう偉い人たち気取りでいるんだぜ」と言われる。しかし繰り返すけれど、愛情と知性とをそなえて制作する人間であれば誰でも、ほかの連中の意見に対しては、自然と芸術とに対する愛情が誠実そのものであることを一種の甲冑とすることができる。」
ゴッホ書簡全集 2巻 559ページ、1882年 ハーグからの手紙 番号220 水曜日の朝 より引用
この直前の手紙でも、
引用: 「ぼくもテルステーフの言うことなんかほとんど気にならない。」
引用: 「もしもテルステーフに、ぼくが絵を描くのは ほかのこととまったく別のちがった性質のものなのだということさえ理解できれば、彼もこうも大げさな騒ぎはしないだろうがね。」
などと書いている。
■3 「文芸批評家としての」ゴッホ
(余談だが、この直前の554ページに、ゴッホがゾラについて書いている。ゴッホは
「引用: ゾラはたしかに第二のバルザックだ。…(中略)… すばらしい仕事だと思うよ。きみがマダム・フランソワのことをどうおもうかちょっと聞きたい。彼女は… 」
と書いている。マダム・フランソワは、ゾラの作中の人物のようである。
こうした、ゴッホの文芸批評は、自分には実に面白い。ゴッホは、ゾラやバルザックの作中の人物、シェイクスピアの作中の人物を、ただ作中の人物と思わず、自分自身を含む同時代の人間と結びつけて捉えている。同時代の人間たちの中に、ずっと昔の作品の登場人物と共通するものを見出して、新鮮な喜びを感じ、それを弟のテオに盛んに書いて送っている。
小林秀雄は、「文筆家、文章家、著作家としてのゴッホ」を実に高く評価していた。
自分は、もう一歩細かい区分として、
「文芸批評家としのゴッホ」というのも、もっと広く認知され、世の人に満喫されていっても良いのではないか、と思っている。)
■4 ゴッホの書簡に付き合っていく内に、
自分は、ゴッホの書簡に付き合っていく内に、だんだんと、ゴッホに肩入れするような気持ちを持つ感じがある。
(同時に、ゴッホ(=フィンセント)の 振る舞いや言動にかなり無茶なものもあるだろう、ということも思うのだが)
そうしてゴッホに肩入れするようになると、テルステーフという人間が、自分にも、何か苦い感情と共にいつも思い起こされる気がしている。
ゴッホについて思う時、自分は、瞬時にテルステーフが頭に浮かび(テルステーフ自身の文章などは残されていないのではないか思うので、あくまでゴッホの文章をもとに想像したテルステーフ像である) 、苦い気持ちを同時に抱く。
テルステーフは、ゴッホの弟、友人、知人の多くと近い関係にあり、ゴッホについてそれらの人々の抱く印象に対して、なかなか強い影響力を持っていたのではないか、と推測される。
平たく言えば、テルステーフは、ゴッホを快く思っておらず、ゴッホの友人知人に対して、ゴッホについて良くない印象を「植え付けていく存在」(悪い言い方をすれば) と言って、そう間違っていない、と自分は思っているのだが、どうだろうか。
(こうした問題は、おそらくどちらの側にも、深く心を長く寄せると、こちらを納得されるものがあるのではないかと思う。現在はゴッホの言い分しか残っていない。片方の言い分を読んで、100%鵜呑みにするのではなく、もう片方のあったであろう言い分を心の内で想像することが重要に思う。そういう点で、司馬遼太郎が「司馬遼太郎の考えたこと 5〜6巻」のどこかで、日露戦争について、日本側の記録と共に、露側の記録をも丹念に読んだ、と書いていることは偉いことだ、と自分は感嘆の念を抱いている。ごく最近読んだ。)
ゴッホを思うとテルステーフが思い浮かび、テルステーフが思い浮かぶと共に、ゴッホにとって快い存在といっていい郵便配達夫のルーランが思い浮かぶ。
しかし、ルーランは、パリへ転勤になり、ゴッホとは離れてしまう。
「悔しい男・テルステーフ」とか、「嬉しい男・ルーラン」とか、そうしたゴッホの心の中に座を占めていた人間たち、
そうした人間たちの名は、「ゴッホという一人の人間」を 心で知る上では避けて通ることは難しいのではないかと思っている。
小林秀雄は、ゴッホの書簡集を熟読して、ゴッホの絵をその後に見た時に、それぞれの絵を見て、書簡の内容を同時に思い出さずにはいられなかった、と書いている。
ルーランの子供が描かれた絵があるように思う。まだずいぶん幼い。
その子供の絵を、ゴッホがどんな気持ちで描いたか。
たしか、ルーランの子供や奥さんと過ごした時間について書いた書簡が残っている。
ゴッホの名は、世の中でよく耳にするが、何がゴッホを煩わせ、何がゴッホの心を慰めたか、それについても、もっとセットにして語られるようになったら、自分としては、更に興味深いことになるのではないか、という淡い期待を持っている。
ゴッホの書簡集に触れるのに、自分として最も良い資料は、みすず書房の「ゴッホ書簡全集」全6巻である。
しかし、これらは、入手がなかなか手近ではない。
みすず書房の書籍は、自分としては実に優れたものが多いが、価格が少し高めに感じている。(その価値を考えれば、仕方のないことと感じているが)
(ユング自伝も優れた本だと感じるが、みすず書房の出版のものである。リットン・ストレイチーの ヴィクトリア朝偉人伝も優れた本であり、みすず書房の本である。どれも大体3000円というレベルである。)
ちなみに、ゴッホの書簡の英語版など、ヨーロッパ言語のものは、著作権フリーのパブリックドメイン化しており、ネット上で容易に閲覧できるように思う。
グーテンベルグプロジェクトでも、英語版の書簡が、(おそらく抄本、つまり飛び飛びではあるが) 閲覧できるように思う。
■5 最後に
最後に、前置きと同じ内容だが、改めて感じることを書けば、
こうしてゴッホについてあれこれ文章を書く中で、自分はもっとゴッホの書簡を深く読み込んでいきたいと思った。
読み込むだけでなく、本の中で遭遇した興味深い箇所について、豊富な引用を交えながら記事を作成していきたいと思った。
本居宣長は、本を深く会得したければ、注釈を書け、と言っている。
自分もその言葉に従っていきたいと今思っている。