私に大学行かせてくれなかった父が「大学に通う」と私の前で宣言したことを悔しくて慰めてほしくて祖母にLINEをした話
先ほど、珍しく家族揃って夕食をしていたら、
父が
「大学に行く。」
と宣言してきました。
父はもう50歳寸前。ちゃんと適齢期に国内の良い大学を出て、その後アメリカの大学院まで行っています。
ですが、今になって、大学に行くと宣言されました。受験勉強をしていたわけでもなく、仕事で必要なわけでもありません。
現実には、父は会社から独立したばかりです仕事が忙しくて朝から晩まで家にも帰ってこれないほど仕事をしている状態です。
なので、受験勉強はできないのも当然です。
しかし、父は、「はっきりとは決めてないけど絶対にどこかの大学に行く」と誰も聞いてないのに一人で言っていました。
それを聞いた途端、
私は悔しくて、
だったら私を大学に行かせてほしかった!!
と叫びそうになりましたが、そうなると、せっかくの大好きな夕食のお好み焼きが台無しになると思って、必死にこらえました。
この年になってなお、泣き虫なので、家族の前で泣きそうにもなりましたが、我慢しました。
イライラしていつもは我慢している夜のデザート食い散らかしました。胃が痛いです。
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私は今19歳です。高校卒業して1年目の年です。
高校生の時の話をします。
途中、父にも私にもイライラしたら飛ばしてください。
今日の夕食の父の発言になぜ、私がここまで怒っているのかというと、
父は、私が「A大学(私立)に行きたい。」といったときに、
「B大学かC大学(どちらも国立)しかダメ。」と言われたからです。
私は高校1年生のときからずっとA大学に行きたくて、他の大学も考えてはいたのですが、どうしてもA大学に行きたい気持ちは譲れなくて、A大学に向けて必死に勉強していました。
そんなときに、ダメと言われて一気にやる気をなくしてしまいました。
だったら大学に行かない。と反抗精神も相まって、毎日深夜まで部活も遊びもせずに勉強していたのですが、勉強を一切やめてしまいました。
高1から毎日勉強を積み重ねて、本来、一番勉強を頑張らないといけない高3のときに勉強を辞めました。
その後は、A大学とは違うけど、小さい頃から絵が書くのが好きで、勉強はもう気持ち的にできなくなったけど、絵なら描ける。と、美大を目指しました。
また、自分自身のやる気がなくなるのが嫌で、父にはなかなか言い出せなくて、(ずっと見つからないように隠れて絵を描いていました。)
ですが、普通に考えて、前もダメだったから許可されないだろうな。と思い、それから、大学に行けないのになんで描いているんだろう。と思い、結局言い出すことができないまま、
絵を描くこともパッタリやめてしまいました。
鉛筆を持って描こうとしても描けなくなっていました。
最初は好きで描いていた絵も、大学に行けないと思った瞬間、描けなくなりました。
最後に練習していた石膏像のデッサンは、途中のまま、今もずっと部屋にあります。
勉強しなくなって半年間弱たった頃、同級生はみんな志望校の受験に向けて願書を出したり、推薦でもうすでに決まった子もいたりしていました。
そんな現実を必死に見ないようにして、現実から逃げていました。
ダラけた生活をする私を見て、父は、突然、
「やっぱり、A大学に行くのもいいかもね。」と言い出してきました。
もう、その時、願書の期限は過ぎていました。
私は今更言うのかよ。と言う怒りと悲しさと悔しさでずっと泣いていました。
もう、大学のことは考えたくないと、通学の大学は結局どこも受験せずに、通信制の大学に入りました。
1年生のときからずっと成績もトップで私自身もガリ勉キャラで大口叩いていたので、親戚も周りの期待も大きく、大学に行ってないなんてことは言えず、ずっと適当に嘘をついていました。
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長くなって申し訳ありません。
その後は、友達や今まであった縁をすべて切って、自分がやりたいことを見つけて独学で勉強して、将来のことも考えられるようにもなったのですが、
頻繁に、大学に行きたかったー!と強く思い、定期的に部屋で泣いている生活を送っています。
そんな中、本日、父に冒頭のような宣言されました。
私はまた、部屋で泣きました。みっともないくらいに。
怒りと悔しさも抑えきれず、
一番大好きで、一番尊敬している母方の祖母に連絡をしました。
(祖母にも最初は大学に行ったと嘘つきましたが、本当のことを話しています。)
私は祖母に、
「あんた、かわいそうだね。あんたのお父さんありえんね。ひどいね。」
そう、同意の意見を求めていました。
そして自分をただ肯定して、父をただ否定してほしかったのです。
ですが、祖母は私が求めていた解答とは全く違う答えを出しました。
「そうね、それはお父さん間違っているね。だけど、〇〇(私の名前)も本当に行きたかったら、どんなにお父さんに言われても〇〇の意見を通して欲しかったよ。おばあちゃんは、〇〇を一番応援しているからこれからだって遅くないから大学に行ってほしい。」
「おばあちゃんもいろいろな面で協力、応援するから、〇〇が頑張るならおばあちゃんお金全部使ってもいいよ。」
そう言われました。
ちなみに、私は、
この、ここまで書いた文よりも、もっと誇張して、私ってかわいそうでしょ!!!と大アピールする文かつ、父がもっとひどいように思えるような文を祖母に長文送りました。
こんなお父さん、ありえないと思わない?
という文末で送っています。
私に激甘な祖母だし、いつも褒めてくれるので完全な同意を、求めていました。
既読はすぐついて、1時間経ってやっと返信が来て、私も長文を送ったので、見るのはなんとなく緊張してしまい、
ちらっと上の文だけ見て
「だけど」という言葉がすぐあってびっくりしました。
もしかして、誰も私のことを認めてくれないのかな。
また、そんなふうに思ってしまいました。
ですが、返ってきたLINEを見ると、涙と反省が止まりませんでした。
今までも悔しくて、悲劇のヒロインぶって幾度となく泣いてきた私が、かつてなく、大泣きしました。悲劇のヒロインではなく金八先生のように泣きました。
ずっとモヤモヤしていた大学行かせてくれなかった問題に対する真髄であり、最終府だと感じました。
私は今まで、何かとつけて父のせいにしてすべてを諦めていました。
諦める理由を父にして、自分は悪くないし、自分には未来がなくてかわいそうだ。と思い、そんなかわいそうな自分を肯定し続けて過ごしていました。
本当に行きたかったら意見を通してほしかった。
本当にそうです。
私は行きたいと、一度しか言わずに、一回だめと言われて、再度挑戦することなく、絶望に浸っていました。
しかも、もし、何度も挑戦してだめでも、今は奨学金もたくさんあるしそれこそ、他の家族を頼ればよかった話なのです。
とにかく逃げるための、自分が悪者にならない手段として父を使っていました。
美大に行きたいときなんて、もう頭の中で勝手に父のせいにして自分でやめてるのに父になすりつけていました。
ダメと言われて、高3のとき受験生にもなって毎日グータラ過ごしていたときも、
自分は頑張っても無駄。どうせ行けない。お父さんのせいで。
と、毎日自分に言い聞かせて自分が受験生なのに真っ当にグータラしてもいい理由を作っていました。
それまでも、それからもたくさんやりたいことがあって、初めは自分から父に言っていましたが、自分のお金で勉強できるようになってからなんだの言われて、それからは母に父に言ってもらうようにしてもらい、自分で頑張る。自分で父に挑戦する。ということを一切しなくなりました。
母に言わせるときは、なんどもなんども挑戦させるのに自分だと、すぐ諦めてしまいます。
そもそも、何かをするときに何かとつけて父に聞く必要もないのです。
なにかする時は「必ず」お父さんに言うこと、お父さんの許可なしじゃ、どんなことでもやったらいけないことなんて、そもそも法律にはないし、私の家のルールにすらなかった。
そんなこと、言われたこともなかった。
私は嫌で悪い父に依存して、父を嫌なやつにどんどん自分の中ででっち上げて、その都度自分は悲劇のヒロインぶって、いつまでも変わらない自分を肯定し続けているのです。
私のこの考え方を捨てて、勝手に自分のやりたいことをやって、たとえお金が必要なことでも今はどうにかできる時代。なんとかして自分で色々やればいいのです。
そうしたら、父への思いや私の中での父の存在も変わるかもしれません。
この高過ぎて、分厚すぎる自分のプライドの壁を一瞬で祖母の言葉に打ち破かれました。
LINEの返信がもしも、私が期待していたような、ただただ私を肯定するだけの文なら一生私はこのルーティーンにハマっていたはずです。
やっぱり、祖母は偉大であると改めて感じました。
自分が心から尊敬できる人の言葉を信じてその人をたくさんもっと頼って、やりたいことをやって過ごしていこうと思いました。