繋がれた命にただ祈る
晴天の空、厚めの雲が時折陽を包んでくれている。
祖母の四十九日の法要を終えた。
何故だろう、お経の間、涙が出てきた。
何を言っているか、理解したものではないけれども。
私には、第六感はない。
祖母の魂や念といわれるものがそこにあった、というよりは、恐らくは既に三途の川を渡った頃なので、現世からあちらに念を送っている、という構図なのだろう。
渡し賃の六文銭は、既に船頭の手の内だろうか。
四十九日の間、現世の行いの裁判や、極楽浄土にいたるための修行がなされるらしい。
死後の世界というのも、相当忙しいな、と思う。おばあちゃん、歩き回って、一体何歳の姿であちらで過ごしているんだろう、と思いふけていた。
お墓に納骨、祖母の欠片はそこに移された。
こちらからの祈りは、届いているだろうか。
たまたま私の手元にやってきた形見を握りしめて
「私は、生きるよ」
「命を繋いでくれて、ありがとう」
と祈った。
ちょうど祖母が他界する前、私の精神はだいぶ不安定で、この世界における拠り所を失ったような感覚だった。
食べることはできる、寝ることもできる。
体を動かすこともできる。
けれど、食べたいわけではない。
あまり、何かをしたいとも思わない。
一人で、安心できない。
今まであんなにあったエネルギーがどこかにいって、未来のことなど考えられない。
進めない、今を生きれない。
ただ、過去に苦しんでいる。
好きだった仕事への情熱も尽きかけている。
もう、生きていても、何もできないじゃないか。
夜道で「もう何もない。周辺整理して、できるだけ迷惑をかけず、静かに終われる場所はないかな」と考えている時期すらあった。
(夜に考え事をするのは、よくないね)
そんな時に、祖母が他界した。
避けていた課題と無理矢理にでも直面することになった。そのある種の荒療治、予期せぬ力学によって、私は今「生きよう」と思えている。
人は、実は壊れるのは簡単なのかもしれない。壊れる、という表現すら、なにか違う気もするけれど。
光と闇なのか
ポジティブとネガティブなのか
信頼と疑念なのか
人には二律背反の面がある。
私の中では、波の上がりと下がり、が激しい自覚がある。
上がる時は、朝起きてから夜眠る時まで、ひたすらにノンストップ。
インプット/内省/交流/計画/アウトプット
周りからは行き急いでいるように見えるらしい。HSS型HSP、マルチポテンシャライトの性質かなと思う。
波の下がりは、なんもやる気ない、あるいはすごく疲れている。ものすごく落ちると、無気力、世界になんら影響を与えられない自分を嘆く。(ホルモンの受容体がどこか不調なのかもしれない)
今回は下がりに下がって、自分という意識の存在を消すことで楽になる、その手前まで想像した。
心理学的観点でいえば、人の生存目的は「幸せになること」なのだと、私は考えている。
生きることが幸せであれば、その人は生き続けられる。生きることが苦であれば、生のゲームを降りる選択をするのだろう。
正しさ、なんていうものはこの世界には存在しないけれども。
人が生きることの意味
生きてたら幸せ?
死は不幸?
そんな一元的でもない、とも思う。
それでも、人は、他者と繋がること。
役立てること。
現代人類は、それを幸せとしてプログラムされて生まれてきたらしい。
今の私は、他者と共に生きたいと、思っている。
現世から旅立ちそうになっていた私を繋ぎ止めてくれた、祖母に感謝を。
この命を大切に、できるだけ身近な人や大切な人、懸命に生きる人を幸せにしてから、寿命を全うして、私はそっちの世界に行くよ。
ありがとう。
令和の、コンクリートに囲まれたこの街で、未来はどんな世界になるのだろうと思い浮かべながら。
私を生かすのは、私の意志ではなく、他者との関わりだ。
それじゃあ、また再会できるときに。