5月10日「アンドロイドは電子機器の夢を見るか?」
お題:「韋編三度絶つ」、「人口に膾炙する」、「瓜田に履を納れず、李下冠を正さず」
2021年5月10日、今日の日記。
GW中久しぶりに本を読んだ。その名も、じゃかじゃかじゃーん「スマホ脳」!
結論は、スマホとは少し遠距離しなきゃな~って話でした。全然関係ないけど「遠距離恋愛」って響きいいよね。何故良いと思うんだろうと記憶をほじくったら、そういえば昔DECO*27さんの「恋距離遠愛」って曲がすごく好きだったことを思い出した。その影響だろうか。同じ円盤に収録されている「エゴママ」もいいんだよね。久しぶりに聴いてみようか。
思い立てばすぐ行動に移せる、便利な時代になったと思う。昔の曲が聴きたくなったら、スマホを開き、ミュージックサブスクやYouTubeから探せばいいのだから。もう夜中に近所のレンタルCDショップまで自転車を爆走させなくても、「アルバム5枚で1000円」の5枚をどれにするか店頭で30分かけて選ぶことをしなくても、ただ人差し指で数回クリックすれば音楽が手に入る、そんな時代に私たちは生きているのだ。
いまやミュージックサブスクやYouTubeは、多くの人々から支持され認知され、まさに人口に膾炙するサービスである。私もその恩恵をたっぷりと受けて、毎日を彩り豊かに過ごしている。はずだ、無意識的に。
というのも意識的には、この彩り豊かさがどこか毒々しく感じてしまう。懐かしの、不便で、面倒くさくて、手間がかかっていたセピア調の淡いあの頃が恋しくなる瞬間がたまに訪れる。便利であればあるほど。
ワンクリックで音楽をダウンロードできた時、ワンタッチで画面に歌詞カードが表示された時、便利だなあとふと感じた瞬間に、心の奥底から喪失感が顔を見せる。
報酬を得るために当たり前とされていた面倒や手間をせっせと加え、手持ちの音楽プレーヤーから音が流れた瞬間の達成感、高揚感。それが失われたことによるもの悲しさは私の頭にべっとりと、けれどひっそりと小さな染みとして存在し続けている。
「韋編三度絶つ」という言葉がある。繰り返して書を読むという意味だ。この言葉を見た時私の脳裏には、レンタルCDに挟まったボロボロの歌詞カードが浮かんだ。見知らぬ誰かさんたちが何度もめくったおかげで、四角い歌詞カードの角が取れ、円とも形容しがたい円型になってしまったものもあった。ボロボロだけど、角のとれた数だけ色々な人に見てもらったんだなと、歌詞カード片手に、たまにしみじみしたりしていた。
あと歌詞カードと言えば、なくなっていた時が一番ヒヤッとした。借りる前に歌詞カードがついていないことを確認せずレジを通してしまい、家で歌詞カードがないことに気づいた時があった。えぇっ、と少し損な気持ちになったが、ないものはしょうがないと前向きにCDを聴いていた。ところが返却の際、レジの店員さんに「こちら歌詞カードは…?」と穏やかに、けれど訝しげに聞かれた。私は正直に、元から入ってなかったという旨を伝えた。しかし、店員さんの瞳は、「ほーん」と、さらに疑いを増した感じだった。ここで気がついたのだが、人生には正直に言えば言うほど疑われる瞬間がたまにある。まさにその時だった。
瓜田に履を納れず、李下に冠を正さず。疑われる行動は避けるべきなのだ。自分の事前確認不足だったという訳だ。腑に落ちないけど。
思い立てばすぐ行動に移せるフッ軽な時代に逆らうように、私の腰は重くなる。ウォッチリストには観きれない映画が溜まり、イントロが長い曲は飛ばしてしまう。
便利な世の中で、不便さを懐古することに意味などない。
けれど、不便を忘れ便利漬けになることに、少し居心地の悪さを感じる。
私が現代の便利さに毒々しさを感じるのは、いつかその便利さに身体を乗っ取られてしまわないかという恐怖からだろう。
スティーブ・ジョブズはわが子にiPadを触らせなかったらしい。その事実から理由を想像するなんて、子どもでもできるだろう。
けれど、そんな簡単な問いでさえも、私たちはスマホを頼ってしまう。想像力の欠如、思考の停止、失われる集中力。一体、スマホが脳なのか、脳がスマホなのか。そんな問いを笑い飛ばすこともできやしない。
アンドロイドは電気羊の夢を見たんだったか、見なかったんだか。アンドロイドは結局私たちで、今宵も私たちはブルーライトで照らされた電子端末の夢を見るんだろう。
今日くらい何も夢なんて見ず眠りたい、そんな私のちっぽけな願いは、エゴママなのかもしれない。