雑考・日記・メモ「怪人『ダダ』と『ダダ』」
「怪人ダダ」が好き。
弱っちいのが良い。
弱っちいのに頑張ってる。
上司に反抗できず、腕力では人間にも劣る。
でも頑張って「人間の標本6体を集める」という上司からの命令を遂行しようと、頑張るのである。無理かもしれない・・・そういう困難がわかっていてもやらねばならない、その悲哀を「怪人ダダ」の転倒シーンに見てしまったのは、果たして私だけだろうか。
美術史での「ダダイムズ」も似たようなものだ。一見先鋭的で攻撃的に見えるが、何のことはない、はったりにすぎない。最初のインパクトのみなのだ。その正体は、グラウンドゼロ、零度のエクリチュールでしかない。「ダダイズム」はだから本当は「イズム」にすらなりえない(その後ダダを引き継いだシュルレアリスムのようにイムズにはなり得ない)。ダダは為したとたんにそこで終わってしまう、ただそれだけのものなのだ(だから私はダダをイムズ化したトリスタン・ツァラなぞよりも、ダダをダダとして為したフーゴ・バルが好きだ)。
閑話休題。
ウルトラセブンの「怪人ダダ」は、ある意味「技巧派」であるにも関わらず「バルタン星人」のような技術の使い手であるわけでもなく、技術を使いこなせない「弱さ」を顕わにしてしまっている。「怪人ダダ」はだから「技術」以前の在り方を、「技術」で武装する以前の「存在の弱さ・脆さ」をそのまま体現している。「怪人ダダ」が終始使い捨ての末端の工作員でしかなかったのは、そういう意味ではそうなのだろう。
敗北主義。
しかし敗北の中にこそ抵抗の核心を、最もな当事者性として看取できるのならば・・・弱っちい「怪人ダダ」が強敵であるゼットンやレッドキング、バルタン星人と比類した人気を未だに誇っているのは・・・案外そのようなところにあるのかもしれない。
私はだから「諦念」をして「あるがまま」や「じねん」に没入するような「ダダ」ではなく(辻潤のような)、抵抗としての・・・こういって良ければ「関係の絶対性」(『マチウ書試論』吉本隆明)としての「ダダ」を、では今それがどのような場面で局面で為されているのか、という事に至極関心があるのです。
2024年2月
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