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雑考・日記・メモ「雑草と言う草はない のかもしれない のだけれども」

雑草と言う草はない のかもしれない のだけれども

雑草と言う草はない、と牧野富太郎は言ったけれども、雑草と言う草はある。それは有用な野菜や観賞植物に対する、その他もろもろの雑草として在る。「野菜・観賞植物 対 雑草」と言うステージでは、雑草というカテゴリーは対立項として不可欠だからだ。
ではそう言う有用性のステージではない、共同のステージで雑草と言う草は無いのだろうか?そう、確かに無いのだと思う。スベリヒユは市場に出回らない非有用な雑草であるが食べると美味しい。ドクダミやスギナだって慣行農業のステージでは忌み嫌われるけれども、民間療法では薬である。雑草も何らかの役に立っている(専門的に言えば雑草相互の菌根菌ネットワークが土を豊かにし、植生を豊かにし、虫や動物の多様性を育んでいる)。民間・協同・コミュニティのステージでは確かに雑草は雑草ではなく、すべて何らかの理由と役割を担っている。だから雑草は排すべきものではなく、雑草の多様性として認められるべきである・・・。
しかし、それで、それだけでいいのだろうか。その先があるのではないだろうか?
民間・協同即ちコミュニティにおける雑草の多様性とは、例えば「ドクダミはこうこうこのような有機的関係を担っている」とか「スギナはこうこうこのような有機的関係を担っている」とか言われるような多様性な関係の担い手であるという事だろう。しかしそこでは「ドクダミ」は「ドクダミ一般」であり、「スギナはスギナ一般」として、そういう一般性としてカテゴライズされている。
そこから疎外されるのは何か?
それは「このドクダミ」であり「このスギナ」であろう。
「この・・・」という個別性は何によってもカテゴライズされ得ないものである。
コミュニティは確かに旧来言われてきたような「同質性の集団」ではなく「多様」を包含するような概念である。しかしその多様性とはあくまで「ドクダミ一般」や「スギナ一般」のように、カテゴライズされた多様性でしかない。ここから個別の多様性を探る事・・・そのためにはカテゴライズやコミュニティといった概念からいったん距離を置き、個別性が個別たる所以を探る事を並行して行わないといけないのではないか。
2024年7月28日 岡村正敏

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