哲学・日記・メモ「憑依≠調和≠制作」
憑依≠調和≠制作
私はアートは好きだけれども、創るという行為は「好き」とは必ずしも言えない。「創る」とは、そんな事したくなくても「創らずにはいられない」からである。
アートが好きと言う人と、何か創らずにはいられない人、とは似ているようで全然違うのだろう。アートが好きな人は往々「自分にない何か」を求めて、それをアートに仮託する。その結果アートやアーティストをミューズとしてしまう。そこには偶像がどうしても生じている。対して、何かを創らずにはいられない人、は「自分でない何かに憑かれて」ものを創る。彼は自分を突き動かす創作の、その衝動の本当の主を知らないままに、その主に対する畏怖と陶酔の混交の内に創作を為す。それは畏敬の念とは明らかに違うし、調和とも異なる。そもそも創造は「私」を脅かすものである。ならば、もしも「私」が創造の衝動に対してあくまで「私」として立ち振る舞うのならば、それは畏怖と陶酔に対して「私」であろうとする、その事を問う事の内にそれはある。ではそれは具体的にどういった立ち振る舞いになるのだろか・・・?
恐山のイタコの憑依と、何かを創造する際の制作行為の違いはここにある。制作行為は憑依とは違うのだ。制作は、創造の衝動に「憑かれ」つつも、徹底的に「私」をあてがわんとするからだ。制作は、私を突き動かす私ではない「何か」・・・無意識とかそれに類する「何か」に「私」をどこまでも屹立させていく行為である。そこにはきっと調和はないだろう。調和ではなく、調和の裏にある、調和を成立させる、原初の根源的な分裂がそこにはある。アートとは、創造とは、もとい制作行為とは、その原初の分裂に繰り返し立ち戻る、そのものの事を指すのではないだろうか。
画像はフランシス・ベーコンの乱雑極まりないアトリエ。
2024年5月26日 岡村正敏