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マンガ岳(石塚真一)を読み終えて

最近になって、たいへん遅くなりましたが、未読であった残る13巻から最終巻18巻までを読みました。

感想として、それまでは、北アルプスを舞台にした一編一編に、登山者の人生背景や事故要因、救助に関わる人たちなどの人間模様が、短編で、かつ丁寧に描写されていた印象がありました。まさに山は人の世界でした。

ちょうど追加読みしはじめた頃から、その様子がおかしい感じがしました。それは長野県警の現実遭難でも約98%が出動する救助ヘリの存在がなくなってしまったことです。また、山小屋では有名な宮○さんも登場なされます。この頃から作画スタッフさんも増えられたようで、描き方の印象さえ変わって感じます。

山岳マンガの現代先駆は、おそらく、村上もとか氏の山岳短編フィクション「南西壁」「ザイル」(小学館 昭和56年)、山岳ノンフィクションでいえば神田たけ志氏の「氷壁の達人」(全3巻 主婦と生活社 平成3年)が、人物及び山岳描写共に素晴らしい作品です。

岳(全18巻 小学館 平成15~23年)は、作品内に年月日を入れられることもなく、警察山岳遭難救助隊をメインにするわけにもいかないフィクションですが、作品が有名になるにつれて北アルプス救助現場の人たちの空気や受け入れられ方に変化や限界が生じてきたのではないかと少し考えられられます。

そこで主人公の三歩の生き方と終末編を迎えるに当たり、舞台を三歩自身の登山としてヒマラヤへ設定してゆくわけですが、山岳スケールの違いがありすぎてもなお、登山者や取りまく人の心情を追ってゆくところに強く共鳴できます。

人を助けるってこと自体が、大きな山ですね。

おそらく、ここが主軸テーマとなり、生きることの大切さ、助け合うことの大切さ、どうして山に登るのか、どうして救助を続けるのかを問うていた感じがします。

舞台がヒマラヤに移ってから、展開が速く、草介君の身体描写も三歩に似て混乱し、風景や海外登山描写の的確さや細かさがなくなった部分も個人的には否めませんが、おそらく作者さんが最も伝えたかったのは、前述部分ではなかろうかと思えます。

山で人の命を助ける、そのために適した主人公の立場とは、医師でもなく、救助隊員でもなく、ヘリ操縦士でもなく、冒険登山家でもなく、山小屋人でもなく、山岳会長でもなく、山岳ガイドでもなく、人の心に際限なく作用できる、寄り添える立場でもある中立なボランティア、ただの人ではなかったかと思うのです。

ここに人は社会的な地位や所属がなくとも、気持ちがあれば、意思があれば、知識経験と技術があれば、周囲の人たちと努力していれば、いつか人を助けられるという強い信念と人間性を感じます。ここに三歩の持つ豪放明快さの性格と共に大きな魅力があったのだと思います。

作品内で、三歩は、次のように語っています。

もう一人の自分がいる。誰が見たって絶対登れないって分かるスゲエ山があって、その山の前に登る気満々で一人で立ってんの。

作者自身の人生観、登山経験などが海外(アメリカ)も舞台としており、もし、そこに信仰心があるとしたなら、と思える、ボランティア精神にも通ずる記述です。

そうであるなら、主人公の最後に希望を含ませたい、周囲へ生きる意味と道を残したいという展開結末の在り方が、自分には納得ゆくのです。

一つの山での一つの遭難救助現場それぞれに命があって、山への人の想いは交錯しています。それほどに重いテーマです。

2003年からの不定期連載の頃には、それらを慎重かつ丁寧に描写できていたように感じられ個人的に好きでしたが、連載となり、また近年の山ブームに潜む事故要因は時代の流れと共に速く複雑変化し、さらに作品への様々な期待も大きくなり、作品づくりのペースを乱してしまったのかなとも見て感じています。

副題にもあるように、岳は、「みんなの山」でありました。

岳人だけではなく、街に暮らす人たちにも伝わりました。

作者さんが一番、本当に、よくがんばった!です。

心温まる勇気をいただき、ありがとうございました!

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