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私たちは現実を見たいように見ている
私たちは見たいと欲する現実を見ていきます。そこにどんな意味をつけるのかは、自分次第だからです。
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魂が意図する方向性、ベクトルというものがあります。絶えず、そこへ向かい続けているという流れ。それは私たちが今世、さまざまな出来事や体験を通じて学びたいと思っていること、体験したいと思っていること。それを学ぶために、わざわざいろいろな出来事を起こしているのです。
その仕組みについて理解ができたとき、私たちは独りよがりのパラダイムから抜け出すことができます。自分自身を不運や病やアンラッキーなハプニングによって気づきを得ようとするパラダイムから抜け出すことができます。
私たちは意図することによってすべてを現象化していきます。いいことも悪いことも、すべてを自ら創造しながら生きているのです。
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私は自ら自由に表現していきたい。そこに純粋性や浄化されたものとして表現したい。私の魂の根底には、そんな願いが変わらずあります。するとどうでしょう。そのことへの意味、大切さを理解するために幼少期から「表現への抑圧」を感じる出来事を自ら用意するのです。
周りからするときっと大したことには写りません。けれど表現への抑圧を欲している幼少期の私は、例えば自ら作った折り紙の作品を親や教師にケチをつけられる、という経験をします。そして、あたかも大事件のように“折り紙事件”、“折り紙のトラウマ”として扱い始めます。「どうせ私が創るものはケチをつけられる」という思い込みが発動するのです。魂ストーリーとしては完璧です。
無事に表現へのトラウマタイズされた私は、そのまま自ら創造することへの制限を保ち、ことあるごとに反対してくれる役者を用意していきます。それは母国語が通じない環境を自ら選ぶ、という一種の表現への壁も同じです。制限をかけ続けていきます。なぜなら魂が絶え間なく導くのです。表現や高潔さ、遊び、余白、純粋性とは何かーーそんな問いを自らへ投げかけるために。
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小さい頃から続く、ひとりひとりの人生。そこはどんなパラダイムのなかにあるものなのか。私ひとりだと気づきにくいものです。他者という存在、社会という枠組み、環境や世界という鏡のような存在があって初めて、私自身について深く知ることができます。
魂が導く先にあるもの。それに気づいていくなかで、私自身が創造してきた、見たいと思っていた現象化してきた現実に気づいていきます。小さなひとりのパラダイムを抜け出したときに初めて、私たちは魂が絶え間なく導く大きな流れのなかで、どのような現実を現象化したいのか、改めて選び直し、創造していくことができるのです。生きながらにして生まれ変わる瞬間かもしれません。
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抑圧や制限などを自らにかけてくることで知りたかった世界。今世において学びたいと思ってきて根底にあるテーマ。それらについて知るとき、私たちは再び驚くことになるのです。学びたいと思ってきたテーマ、知りたかった世界、それらはすべて生まれたときからずっと自分自身に備わっているものだったのだ、と。
すべて、既に在る。
人生をかけて探し求めてきたものが、すべて自分自身に備わっているのだ、と。外に何かを追い求める必要はなく、すべて既に在るのだとするならば。満ち足りている私たちは、何をするのでしょうか。ただ私たちにできることを行う。そして余力を感じるならばシェアをしていく。そのなかで豊かなリソースを分け与えていく。ただそれだけなのではないかな、と。
あなたの魂が絶え間なく導き続けているのは、どんな道ですか。どんな流れを根底に感じていますか。
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![やまさきまりこ / 山﨑 真理子](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/163419115/profile_df1b35ade53dcd84c76ad17444633bf6.jpeg?width=600&crop=1:1,smart)