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No.411 私の好きな古典 『思斉漫録』の中の「亀田窮楽の孝行譚」にスキ!

 江戸時代後期の随筆『思斉漫録(しさいまんろく)』(1832年?)は、子ども向けの教訓書です。作者の中村弘毅(こうき)は、朱子派の儒者で、1835年(天保5年)に83才で没しています。その作品の中に、認知症になりかけた母親に対する孝行息子・亀田窮楽の話(巻一)が載っています。私の大好きなそのお話を紹介させてください。(なお、必要に応じて、私が会話文に「」をつけ、読み仮名を現代仮名遣いで()に記しました)

 ○亡友某の話に、窮楽と言ひしは、書をもよくして名高き人なり。堀川それの所に住まひせしとき、母は老いて病に臥す。客来たり問ひて、次の間にて、窮楽とものがたりする折ふし、暴雨にて、堀川の水たちまちまし、漲り落つる音、高く聞こえけるを、老母聞きて、窮楽を呼び、「何の音なりや」と問ふ。窮楽ねんごろに、その由を述べて、水音なる事をこたふ。母、「さては、さにありしよ」と、うちうなづく。窮楽、席に返りて間もなく、母、窮楽を呼ぶ。「あ」と答へて、ただちに行く。「あのどふどふといふは、何の音なりや」と問ふ。窮楽つつしんで、「あれは、堀川の水増して、漲り落つる音にて候ふ」と初め言ひしごとく答ふ。母笑ひて、「さてはしかるや」と言へるにぞ、また返りて客に対するに、また窮楽を呼ぶ。声の下より立ちて行くに、母、問ふこと同じく、答へもまた初めのごとし。客驚きて、「などて、数度同じことをなしたまふぞ。『先に答へし』と、言ひ切りたまはぬ」と言へるに、窮楽、頭打ち振り、「いや、さてに候はず。母老いて病に冒され、聊耄(りょうもう)せしやうにて、ただ今、問ひし事をも打ち忘れ候ふゆゑ、いく度問はれ候ふも、みな初めて問ふ心にて候ふほどに、こなたも、初めて承り候ふ心にて答へ申し候ふよ」と言ひけるにぞ、客も大ひに感賞せしと語らる。ああ、窮楽のことは、畸人伝(きじんでん)に乗せられたるを見て、其の人の孝のみならず、心ばへ、凡ならざるを知りぬ、亡友の語られし一事は、子たるもの、老いたる親につかふるに、其の志あらば、いかで不孝の事あらんや。かかる孝子なる故(ゆえ)、畸人伝に乗せられしごとく、また孝子を得られしは、天の報応空しからずと言ふべし。

口語訳…私の亡き友、某君の話だが(亀田)窮楽という者は、書も上手で有名な人である。(その男が)堀川の辺りに住んでいた時に、母は老いて、病気で臥せっていた。(窮楽の)客がやって来て、母の部屋の隣の間で談笑していたときのことである、暴雨のために、堀川の水がたちまちのうちに増してきて、水が満ちて勢いよく流れる音が高く鳴り響くのを、年老いた母が(床の中から)聞いて窮楽を呼び、「何の音かしら?」と尋ねた。窮楽は、とても丁寧に、あれは、大雨が降って水かさが増し、勢いよく川が流れる水の音だと答える。母は「それで、あんなにすごい音がしているのね。」とうなずいた。窮楽が客のいる部屋に戻ってしばらくすると、母が(また)窮楽を呼ぶ。「はい」と答えてすぐに行く。「あのドウドウというのは何の音かしら?」とたずねる。窮楽は、礼儀正しく、「あれは、暴雨のために堀川の水が増して激しく流れる音なのです。」と初めに言った通りに答える。母は笑って「ああ、それでなのね。」と言うので、(窮楽が)ふたたび客の相手をしていると、又「窮楽!」と呼ぶ。声がするとすぐに立って行くと、母の質問は初めと同じで、返事も初めと同じようである。客が驚いて、「どうして何度も同じことをなさるのですか。なぜ『さっきお答えしました』と言いきらぬのですか?」と言うと、窮楽は頭を振って、「いや違うのです。母は老いて病気に冒され、耄碌し、たった今言ったことも忘れるようで、何度となく尋ねる事も、母にとっては初めて聞くつもりでいらっしゃるので、こちらも初めて聞いたつもりで返事をしているのですよ。」と答えたので、客も大いに感動して褒めたと語った。ああ、窮楽の事は近世畸人(きじん)伝に乗せられているのを見て、その人物の孝行であるだけでなく、優れた心遣い・気立ての非凡であることを知った。亡き友が語ってくれたこの一つの話は、子どもが老いた親にお仕えする時に、その敬う心があるならば、どうして不孝などがあろうか。この様な孝行息子だからこそ畸人伝に乗せられたように、再び孝行息子(久兵衛)を得られたのは、天が与えた報いが、素晴らしい物であるというべきである。

 イイお話ですね!窮楽の、耄碌した母親への応対の仕方が見事です。
 「母は耄碌したために何度も同じことを聞くが、それは病気に冒されたためである。何度聞こうとも、母親にとっては初めて聞くつもりで質問しているのだから、こちらも初めて聞いたつもりで何回でも答えるのです。」
という意味の言葉を来客に説明しています。この窮楽の気づきは、認知症を抱える家族や介護者にとって有益なアドバイスではないでしょうか。

 現実的な問題は多々あると想像します。窮楽の母親のような物わかりの良い人ばかりではないでしょう。しかし根本は、症状を患った人に対する言葉以上の「愛情」や「思いやり」をもって、どこまで尽くせるかという事のように思います。健康な人でも若者でも、いずれは誰もが老います。誰もが認知症になる可能性はあるのです。目の前の患者は、何年後かの自分の姿だと考えれば、とても他人ごととは思えないでしょう。されて嬉しい、言われて楽しい、そんな介護のあり方を共有できる社会でありたいもの、生きたいものですね。そんな思いの芽を育ててくれたお話です。

 亀田窮楽(1690年~1758年)は、江戸時代中期の書家で、5代将軍綱吉~8代将軍吉宗の時代までを生きたと言います。松尾芭蕉や井原西鶴の晩年の頃に生まれ、近松門左衛門と同時代の人物でした。今から250年以上も前に生きた人が、このような介護哲学をもって孝行していたことに心からの敬意を覚えます。私の学びたい精神です。

 出典の『思齋漫録』(全二巻)は、『日本随筆大成』(第二期・24巻)、吉川弘文館発行(昭和50年1月10日)。本文は、そのP145~P146によりました。

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