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境界線

以前、Twitterか何かで気になって居て、何処かのタイミングで読みたいと思っていた漫画。
つい先日、本屋さんで見付けて躊躇わずに購入した。

自分の心の余裕と言うか、物語に入り込む(しかも原作を読んでいるが故に)には体力が必要な作品だから、落ち着いている時に腰を据えて読もうと決めていた。

今日は頭痛が酷いものの、思考力と身体の大きな不調も無かったので、日曜日と言う事もあり、隣人の感覚を学びたくて拝読した。

今、正に対戦が起きている。

私はふと、「女の顔」って何だ?
と、疑問に思った。
すぐさまそれは「ナイチンゲールや聖母マリア」粗方、愛ある眼差しを持つ表情の顔を指しているのではないかと想定した。

この漫画の中の女性達は戦場で愛ある表情で日々を過ごせていた様には到底思えなかった。

はたと、自分が落ち着き払って読めている事に驚きを持った。

私は幼い時は感受性が強いの、一言で済まされていたが、自分にも他者にも、それどころか観ている媒体、読んでいる誌面、そこの中で自分の境界線が無いが故に相手の元へ飛び込んでしまい、感情が同化してしまい自身を失う事態をほんの1年程前まで続けていた。

話が逸れるが、私は自分の境界線を構築する為に、先ずはテレビを押し入れにしまい込んだ。最後にテレビを見たのは大豆田とわ子と三人の元夫のドラマ最終回の時である。
あれ以来、私は見たい番組は携帯からサクッと観て、なるべくCMやMCと言った、他者の言葉や画面を通したメッセージから身を守る事にした。
私の生活を極端だと言った人も居たけれど、お陰で私は今、狂う程に揺さぶられる事無く、見たい世界を見れている。
それは、私にとってとても感謝な事だ。

話を戻す。
境界線が無い恐さと言うのは、簡単に言葉で私はあなたと友達では無い、玄関を跨がないで、を、簡単に玄関の扉を開けられてしまうと言う様な明確な生易しいものではない。(少なくとも私にとっては)

例えば
【波乱】「私たちをレイプするな」トップレスの女性が、カンヌ国際映画祭のレッドカーペットに乱入。ロシア兵によるウクライナでの性暴力に抗議する意図があったとみられる。-ハフポス記事ト-
この記事を今日、私は目にして読んだのだが、境界線の無い時であったら、自身がそのトップレスになり乗り込んだ女性の状況下へ秒で移動し、また、彼女の周りで起きたのであろう性被害者の気持ちや、戦場で受ける状態からのその女性のその後にまで感覚が同化してしまうのだ。

私は今迄、この感覚があるから他者の気持ちに深く寄り添った支援が出来ると誇らしさや自分のポジティブな側面として捉えていた。
また、幼い時からこの感覚は誰もが持っている感覚では無い事を知るまでは当たり前とも思っていた。

だから、辛くなっても、皆耐えたり乗り越えて仕事や生活をしているのだから、私も当たり前に之らからの感覚や感情を生きる為の糧にしなくてはならないと必死になった。
そして、私はずっと潰れ続けた。

自分の境界線を持ち得て、初めて私は自分に出来る事と出来ない事を明確にする事が可能となった。

例えば今のУкраїнаとRussia戦にて、私に出来る事は関わりの在る団体に対してお金が明確に何に使われ支援となったのかが可視化出来る募金をする事。
また、実際に現場へ赴いているスタッフの心身の安全とミッションの遂行を祈る事。
また、早期に戦争の終結をプーチン大統領が決断する事を祈り求める事。
何より、両国の人々が安定した暮らしに戻れる日が来るまでの時間、祈りを欠かさない、風化させない事である。

私がパニックを起こして女性達や子ども達、戦線の方々の状況に同化して悲しもうと、苦しもうと、引き裂かれた気持ちになっても、この戦争が終結を迎える事は無いからだ。

え、この人の脳みそ、ぶっ飛んでる?狂ってる?
と、思われても仕方ない。
その状態で生きているから、私は社会の中で生き難さを抱え、人間関係でも大きな障壁が存在するから精神疾患による精神障害者なのだ。

ほんの赤ちゃんだった時に養育者とアタッチメントがうまくいかなかった事が原因で、私は人生が終わる時迄治らない見捨てられ不安と共存しながら、自分の境界線を見失わないように生きねばならない。
見失ったら短命になるからだ。

この漫画にも出て来たが、戦場では心が置いてきぼりになる。
本来の姿は消え、有り得ない事態を当たり前とする人間の集団が起こる。

Українаが自国を取り戻し、小麦の穂がまた美しい実り豊かな時を迎える事が出来ても、傷を負った人間の脳みそが回復する事は困難を極める。

複雑性PTSDが戦場から戻った兵士達の状態から生まれた疾患名である事の重みを、私は胸に刻み付けて生きたいと思うし、ここまでお読みになって下さった方でご存知無かった場合は、戦争に巻き込まれた人間や複雑性PTSDを持つ人間に対して、私達の脳みそが記憶してしまった恐怖の度合いに思いを馳せて頂けたらと思うのです。

そして、虐待と言う事により境界線無く育つ子どもの気配を感じたら、一人で担うのは大変だと思うので、誰かにSOSを出し、あなたの境界線をも守りながら、子どもの救助に周りの大人達が介入出来るように私は祈り求めています。

自分にとっての境界線を考えてみた事はあるでしょうか。
自己の境界線把握により、自分の感情がどう動くかを理解してみると、新たな対人関係への視線を持てます。

クリスチャンとして、私は隣人愛を勧めます。
それには先ずは自分の境界線を大事にし、他者の境界線をも大事にする事が共存しながら生きると言う事に繋がり、そして、お互いを思いやる事で愛し合う事が可能になるのです。

一度ご自身で自分の境界線を見つめてみてください。
その時が平和な世界へと繋がる事を祈っております。

追記
境界性パーソナリティ障害を含めた愛着障害は後天的な脳みそ負傷の障害です。
虐めや誹謗中傷により相手の境界線を犯す事は、脳みそに対する傷害です。
自分の境界線を省みると、言葉に気付くかと思います。
どうか、その大事な感覚を大切にして下さい。
宜しくお願い致します。

愛と祈りをもって。

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