駆け抜けた20年間
20年前の今日、アタイは産婦人科で号泣し、麻酔が覚めたあとにケーキを食べて独り暮らしのアパートへぼんやりと戻った。
出されたケーキは地元で有名な所のケーキ。
クリスマスは予約を入れなければホールは買えないような人気店の物で、子どもを葬ったのに自分には特別な物が与えられた矛盾の様な意味不明さに陥りながら食べた。
まだ肌寒い日、複数人の男性に囲まれ性被害を受けた。
学年が変わる頃、定期的な月のものが来なくて病院へ駆け込んだら既に子どもが確実に解る状態だった。
1ヶ月を待たないで20年前の今日、アタイは子どもを葬った。
その3ヶ月も満たない時間はアタイを常に負の気持ちで満たした。
集団男性への恐怖感、子どもへの戸惑いと身の事を考え、これから行わねばならぬ事を決める時の絶望感、葬った時の消失感。
この世の苦しみはあの時よりも幼い頃から沢山味わって居たから自分は大丈夫だと思った。
学校でも平然を装った。
3年後、精神科の薬による副作用で母乳が出た時には情けなさでこの世の終わりを感じた。
実際は全然駄目だったのだ。
20年経ってもアタイは今日と言う日、懺悔の気持ちとこの先を生きて行く意味の無さを味わっている。
正しかったと思う。
19歳のアタイが一人きりで育てたり、親にましてや頼っていたら、子どもにまで親からの苦しみを味わせただろうから。
それでも虚しい。
ただただ虚しい。
そして切なさでいっぱいになる。
20年目にして、初めて喪にふくす様に一日しっかり誰とも会わない、何もしない、心身をとことん休め、もう一度遺書を書き直す等の、心の中で2人きりの時間を過ごせた。
今はまだ消える予定では無い。
でも、20年目にしてようやく全身麻酔の時みたいな全身を覆う暗闇に纏われて来た日々に整理整頓が着けられたような気がしている。
自分が消えるその時迄、アタイの心身には暗闇が纏ったままだろう。不思議とその時もアタイは平然と笑って行こうとする気がする。自分の板に着いた笑顔と大丈夫と言う単語使いがアタイから剥がれる事は無いだろうから。
花の咲き誇るこの季節に子どもを見送れてよかった。実際には会えていないし、週数的に焼き場にも行けず、医療側での廃棄になって居るのは解って居る。アタイの知って居る自分の子どもはエコー写真のモノクロなお豆さんだ。
また春をアタイは迎えねばならないのだろうか。
でも春になれば自然と共に過ごせている気持ちになれる。
また会えたりするのかな。
子どもを産む事は更年期でもう無理。
それでもいつか春を余裕の気持ちで迎えられますように。
そんな事を祈った。
今日はそんな日。