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無題

 「無題」というテーマで書こうと思う。なぜなら、これから書くことにはなんの新しい発見も有効な学びもないからだ。当たり前のことを、当たり前に書く。読了感としては「せやな」とかかな。目的や価値を希求しないことにも寛容になってほしいなと思って!まあ、そんなメッセージ性もないんだけれど。

 夏が近づいている。確実に。淡々と。10年以上金融機関に勤続するサラリーマンのような着実さ。気温はともかく、湿度だ。自転車のペダルに足を乗せ力を入れると、肌をもったりとした風が撫でる。昼夜問わず、もったりしている。おは朝かなにかで天気予報を見たら、きっと「明日は1日もったりとした風が吹くでしょう」とかなんとか言われそうな湿度。たぶん、言わないけれど。ミレミアム世代のぼくはテレビは観ないので、わからない。

 夏よりは冬が好きだ。冬は切ないからね。乾いて澄んだ空気が、夜景の奥行きを心地よく広げる冬。雪がわずかな陽光を乱反射させ、空気中までその白色を広げる冬。煙草の煙に、白い息が混じる冬。全部切ない。寒さ故に人肌が恋しくなるだとか、クリスマスやバレンタインというカップル重視のイベントが多いからだとか、そういうことも起因しているかもしれない。それでも、冬はとにかく切ない。街を歩くだけで、胸を締め付けられる。

 そんな冬への寂しさを抱えながらも、夏が近く6月。そこで気づく。夏も切ない。特に、夏の夜。もったりとした風を受けながら夏を連想してペダルを漕ぐ中で気付いた。なんだろう。冬とは違う切なさ。祭り、海、花火、キャンプ。どれも、思い出の最後は夕方か夜だ。「終わる」という感覚が夜と共に記憶の倉庫に貯蔵されているからなのだろうか。夏の夜は、夏特有の切なさを思い起こさせる。湿度の高い空気の、嫌な匂いを伴って。

 そう考えると、秋も切ない気がする。秋の夜長、なんて言うくらいだ。うだる暑さと比例して長くなる日照時間は、夏至を境に折り返す。秋が深まるほど、冬への予感が大きく現実味を帯びるほど、切なさは増す。冬を想起させる秋。夏の切なさに終止符を打つ秋。紅葉に切なさを覚えるのは、夏の切なさと秋の切なさの過渡期だからか。なんとなく種類も味わいも異なる切なさの過渡期で、うまく感覚器官を調整しているんだ。そうでないと、四季は味わえない。味わえないなら、生きる意味も特にない。

 四季の味わい、と考えると春が残っている。そうだ、春も切ない。なんだ、日本は年中切ないんじゃないか。どの季節も、どの月も、絶妙に違う切なさを奏でているんだ。四季は気温の変化や、それに伴う情景の変化を味わうものではない。変わりゆく切なさを味わうものなのかもしれない。

 春といえば?桜だ。入学式に桜が満開で、卒業式に桜が散っているのがドラマやアニメの原則。しかし、現実は異なる。時間軸がね、おかしいからね。そういう、理想の桜の満ち引きとの隔たりは、ひとつの切なさだ。

 先の話を思い起こすと、春の切なさは冬が去る予感から始まる。桜が咲き、散り、新緑が芽生え始める。日差しが温度をあげる度に冬が終わることに落ち込むが、夜になると思い起こしたように寒い。春の夜は、部分的には冬だ。そういう、過渡期はだいたい切ない。大学時代の思い出が切ないように。

 冬の残り香が消え去り、夏に向けて着実に春が進むと、雨が降り出す。雨こそ切ない。新緑と初夏の強い光を、水たまりと空気中の水分が乱反射する。冬の雨にはない、緑と白の絶妙な反射。グラデーション。初夏にしか、あの味のある色は出せない。

 そうして、四季の切なさに思いを巡らせていると、あるフレーズを思い出す。「春はあけぼの。ようよう白くなりゆく山際少し明かりて、、、」のフレーズ。中学時代、無意味だと文句を垂れながらも覚えさせられた、枕草子だ。

現代和訳のものを載せてみる。やさしいからね。

春は夜がほのぼのと明けようとする頃(が良い)。(日が昇るにつれて)だんだんと白んでいく、山際の辺りがいくらか明るくなって、紫がかっている雲が横に長く引いている様子(が良い)。

 やはり、春はいいらしい。明け方の、山際からほんのり刺す白い光は春の暖かさの予兆だ。春の陽光が冬の雪を溶かし、新たな四季が始まるような心地を、日の出すら同調して表現する。

夏は夜(が良い)。月が出ている頃は言うまでもなく、(月が出ていない)闇夜もまた、蛍が多く飛び交っている(様子も良い)。また(たくさんではなくて)、ほんの一匹二匹が、ぼんやりと光って飛んでいくのも趣がある。雨が降るのも趣があって良い。

 夏もまた趣がある。確かに、月はいい。星もいい。月が暗い日には、蛍もひとつの情景だったろう。都会に住む僕らは努力しないと見れない。きっと、今でいう屋台みたいなものなのかな。多いのも賑やかでいいし、少ないのも切なくていい。

秋は夕暮れ(が良い)。夕日が差し込んで山の端にとても近くなっているときに、烏が寝床へ帰ろうとして、三羽四羽、二羽三羽と飛び急いでいる様子さえしみじみと心打たれる。言うまでもなく雁などが隊列を組んで飛んでいるのが、(遠くに)大変小さく見えるのは、とても趣があって良い。すっかり日が落ちてから(聞こえてくる)、風の音や虫の鳴く音などは、言うまでもなく(すばらしい)。

 秋は夕暮れがいいと。確かに、鈴虫やコオロギは秋を感じさせる。心地よい高音。高過ぎず、低過ぎない。ベテランのメジャー歌手のような安定感。秋には安定感がある。ドリカムの吉田美和が浮かんだ。安定感で右に出る歌手はいないよね。

冬は早朝(が良い)。雪が降(り積も)っているのは言うまでもなく(素晴らしく)、霜が(降りて)とても白いのも、またそうでなくてもとても寒い(早朝)に、火などを急いでおこして、(廊下などを)炭を持って移動するのも、たいそう(冬の朝に)ふさわしい。昼になって、生暖かく(寒さが)だんだんとやわらいでいくと、火桶に入った炭火も白い灰が多くなっているのは(見た目が)よくない。

 冬は朝がいいというのが清少納言の見解か。確かに、冬の早朝の、雪解け前が一番綺麗な白色を反射している。これは冬にしかお目にかかれない趣だ。炭の移動は現代でいうと、灯油をストーブに入れるベランダでの営みが近いだろうか。電気ストーブを、清少納言はどう思うんだろう。

 こうして振り返ると、「無題」というテーマは悪くなかったように思う。予告通り特に発見も気づきも与えていない。四季は変化があり、その変化は見方によっては美しいし、それは切なさをそれぞれの形で与えるという、ごく当たり前の話だ。

 年末に「今年の漢字」なんてものを決める。師走だなんだ言って、その年のうちに片付けたがる。境界を決めなければ、走る必要なんてないのに。12/31と1/1は、7/31と8/1とほとんど変わらない。前者は冬で、後者は夏だ。1日の違いは、大きくない。

 そうやって無理に区切らずに、人為的に便宜的になりすぎず、世界の変化をありのままに感じることができれば、「無題」の世界を楽しめるんだろうと、思う。文章では、区切らざるを得ないから、切ないな。四季の連続性を表現できないな。しばらくは、自分一人で、区分できない移ろいを味わおうと思う。春と夏の過渡期で。もったりとした風を感じながら。

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