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主に世界と人間について書かれたエッセイたち

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#日記

自分であるか、正しくあるか

 「議論」の札を掲げた場や、その色を持った営みにおいて、しばしば方向感覚を失うことがある。東西南北だけでなく、無重力で上下左右もなくなったかのように、判断の拠り所が消えてしまうのだ。その時、それまで拠っていた「何か」は脚の壊れた椅子みたいに頼りがいに欠けて見える。  まず一つ、正しくありたいのだ。なるべく間違えたくない。失敗を重ねることがどれだけ学びになるかはエジソンの出どころのわからない格言で聞き飽きた。それでもしかし、なるべく客観的であまねく正しいと思われるような主題を

告白

 告白しよう。狼だぬきはこれまでの人生において、重大な勘違いをしていた。その勘違いによって、彼は自らを生きづらくさせたし、世界をつまらないものにさせた。  その勘違いとは、「人々は閉じている」という偏屈な認識である。人々は閉じていて、冷たくて、やさしくない。  そのため、彼は有事の際には自分の内側の深いところまで逃げなければならなかった。誰も入れないであろう暗部に身を潜めて、重厚な壁をもって繊細な自分を守らなければならなかった。それが信念だった。  しかし、いま気づいた。

魂の下書きばかりが積もり

 「文章」を書きはじめてから3ヶ月ほど経った。村上春樹が「結局のところ、文章を書くことは自己療養の手段ではなく、自己療養へのささやかな試みにしかすぎない」とそのはじめての小説『風の歌を聴け』で書いたように、ぼくにとって文章は自己療養が目的であり、自己療養へのささやかな手段でもあるようだ。だから、定期的なリズムで文章を生み出すことは難しい。療養とは、ある種の不規則性への対処という性質を持つから仕方がない。  引用した村上春樹は、ランダム性とは対極の手段を取って執筆をしていると

信じれば、望めば、頼れば。

 学校にいる。大学ではなくて小学校にいて、若手成人向けの教育プログラムを開催している。校舎の窓から外を眺めると、三方向とも山で、昨夜から降り続く雨が校庭を濡らしていて、もったりと湿度で重たくなった空気で汗ばみながら、ゆったりとした気持ちで参加者を見ている。今この時間、コンテンツは存在しない。自由に2時間以上の時間が与えられている。しかし、誰一人として持て余している人は存在していない。談笑の輪が大小と、昼寝する人、バスケをする人、1人整理をする人。自由に存在している。つまりこう

「矛盾をおもしろがる」のすゝめ

 人間は根本的に矛盾を抱えている、というのが狼だぬきが取るスタンスの一つである。鏡を前に小さなため息をこぼす女子大生は「痩せてもっとキレイになりたい」し、一方で「ケーキを飽きるまで食べ尽くしたい」とも思っている。卑しい感情の葛藤が、可愛げを奪っているように思える。  その二つの欲望は矛盾している。もう少し丁寧に言うと、相反しているという語感の方がフィットするだろうか。二つの欲望には正しさも優先順位もなく、ただ彼女とその周りに存在している。  別の事例でも、夢追いの起業家だ

誰も良くないし誰も悪くないんだって

 金持ちが「だから貧乏人はバカなんだ」って揶揄する。貧乏人は「金持ちはカネのことしか」と言い返す。もちろん、不特定多数の間接的なやり取りにすぎないが、それでもクラスターの異なる抽象的な人間同士は傷つけ合おうとする。  金持ちにも、なんだかんだランクがある。億万長者、ヒルズ族、IT起業家、資産家、外資コンサル、日系大手、、、あらゆる金持ちが、年収を軸にしたり、別のポイントを引き合いに出したりして、蔑み合う。顕在的にも、潜在的にも。  金持ちにディスられた年収1000万サラリ

「自由」や「幸福」なんて、やめちまえ

インフルエンサーにインフルエンスされていても、世界は幸福にも自由にも傾かない  「一億総活躍社会」が近づいているらしい。うそつけ、なんて十三の雑踏に控えめに吐き出す。「個の時代」とか「信用の時代」とかなんとかうそぶいて、分断は余計に広まっているようにすら思える。  誰も彼もが「ブログだ!」「コミュニティづくりだ!」と声高らかに、コミュニティとは名ばかりのサークルをつくっている。  猫も杓子も「正解はないよ」だなんて言って、みんな大して考えもせずにインフルエンスされて自分

陳腐な発言をしないための陳腐な発想

 誰かと会話をしているとき、うんざりすることがある。とりわけ人間とか世界とか、そういう類のものについて話しているときにだ。自分の発している言葉が何か直接的で単線的過ぎて、世界にある膨大な前提や条件、要素を等閑に付して言語化しているような気がしてくる。もっと美しく残酷であるはずの世界をちっとも表せていないことに半ば絶望し、半ば嬉々として、しどろもどろ。  言語は世界をカテゴライズするものとして機能する。形のないものにカタチを与える。そうして僕たちは世界を認知してきたわけだが、

全部「分かりやすさ」のせいだ

 「分かりやすさ」がある種の正義になってきた。これ以上「分かりやすさ」がインフレするなら、社会は破綻するだろうな。財政破綻ではないから、「意味の破綻」とか「存在の破綻」とかそんな感じだろう。  「分かる」の語源は「分ける」だとしばしば言われる。カブトムシを分かるためには、「カブトムシ」という名前をつけクワガタと区分する必要がある。名前が付けられ形が与えられたものは、たちまち数多の研究によって詳細が付されて行き、さらに分割は進む。カブトムシも、大カブトムシとか、ヘラクレスオオ

感受性マイノリティを差別してはいけない

「形」に囚われる限り、ぼくたちはマイノリティを生み出し続ける  新しいマイノリティがある。世界中で、あらゆる「マイノリティ」が問題とされている。貧困、部落、発達障害、身体障害、難民、LGBT...あらゆるラベリングが、あらゆる区別を生み、随伴的に差別を生み出す。世界をそんなに分かりやすく分割することなんて難しいのに、隔てることばかりに精を出すんだ。大きなものからくくってカテゴライズすれば、残ったものはマイノリティ。至って自然な演算で、残酷だ。  ぼくが今もっとも難しいと感

「朽ちゆくものの美」こそ、絶望を肯定する

 「自分のことなんて、誰もわかってくれない」なんて言ってこうべを垂らして、小部屋に篭って、関係性を自ら断絶して、分かり合える可能世界を消失させて、そのくせ世界を嘆いて誰かのせいにして、それでいて他でもない自分自身に一番嘆いていることに気づかないフリをしていた時期が、20代始めにあった。  世界は自分自身の欲望や精神的欠損が投影され、ぼくの前に現れる。そういう認識を持ってからは、余計に自分自身が惨めで、健気で、憎らしかった。「分かり合える世界を」なんて絵空事を掲げて、その実も

偶然のような必然、のような偶然

 本屋が好きだ。それも紀伊国屋書店とかジュンク堂のような大型の書店。都市にあるような大型の図書館でもダメだ。とにかく大きな本屋に身を埋め、てくてくと無作為に歩き回りながら、目についた本をほとんど衝動的に購入して、勢いで読み切る。そういう「読書」が好きで、なんならほとんど偏愛的な趣味とも言える。  日が傾き視界を突き刺す西日が1日の終わりを予告する頃、今日も大型の本屋に出かけた。読みきっていない山積みの本に一瞥をくれながら重い鉄の扉を開け玄関を後にする。後ろめたさ、のようなも

「しんどい人が救われるべきだ」の幻想。一体、救われるべきは誰か

 梅雨の浮かない曇り空が影を落とした1ルームの部屋。対抗して、早すぎる点灯。窓を開けると、どんよりと湿った風が入り込む。窓を閉めて、冷房をつける。約1ヶ月続く予定の灰色の空を眺めて、ため息を落とす。毎年梅雨は来るのに、毎年落ち込む。馬鹿みたいだな。そんなもんか。  目の前で、ハムスターが回し車を休みなく蹴り続ける。「どうして意味もないのに蹴り続けるんだろう?」なんて思って、ハッとする。そうか、ハムスターにはハムスターの正義があるんだ。人間である(あるいは狼だぬきである)ぼく

人には人の、「辞書」がある

「うんうん、分かる分かる」  この言葉は、ほとんど暴力と同じだろうと思う。人は分かり合えない。圧倒的な真実。それでも分かり合える世界を希求して生きながらえることはできる。しかし、その道程は長く、険しい。シルクロードを開拓するかのように。あるいは、もっと際限がないように感じる荒野で無くした指輪を探すかのように。  この頃、共感性が一つのコンテンツになってきた。他者の痛みや喜びを分かち合ったり、それぞれに備わる共感性を利用したマーケティング手法が生まれたり、共感力が大黒柱的リ