陳腐な発言をしないための陳腐な発想
誰かと会話をしているとき、うんざりすることがある。とりわけ人間とか世界とか、そういう類のものについて話しているときにだ。自分の発している言葉が何か直接的で単線的過ぎて、世界にある膨大な前提や条件、要素を等閑に付して言語化しているような気がしてくる。もっと美しく残酷であるはずの世界をちっとも表せていないことに半ば絶望し、半ば嬉々として、しどろもどろ。
言語は世界をカテゴライズするものとして機能する。形のないものにカタチを与える。そうして僕たちは世界を認知してきたわけだが、言語化自体によって起こってしまう分断に自覚的になるのは、だいたい世界についての対話においてである。だから、言葉に詰まる。ほとんど大多数には「考えすぎる人だ」くらいにしか認識されていないことに、またこうべを垂れる。理解される希望を持ち合わせれない。国語教育の敗北なのか、知性と想像力の問題なのか、はたまた人間とはそういうものなのだろうか。
「単純化こそが正義である」という言説すら一定の権力を持ち始めて久しい。もちろん世界という大きな多面体にはそういう側面も存在するだろう。しかし、それはあくまで生産性を軸においたときの正義の一つの現れ方であって、あらゆる人間が信仰する教義とは程遠い。それでも、生産性は素早く所得に寄与して、ぼくらはカタチに支配される盲目な生き物であるために、複雑さは単純さに敗北する。ポスト資本主義だなんて言って、ちっとも変わっちゃいない。ファクトフルネスだなんて知らない、重要なことは僕たち一人ひとりに「変わった」という実感があるかどうかだ。実感の伴わないデータや、実感を誘発しないデータの変化をいくら並べたって、人間は豊かになれない。
「言語化という作業自体の抱える矛盾」(世界を把握したいがために言語の形に置き換えるのに、それによって分断が起こる)と「浅はかな単純化ブーム」の障壁を抱えるぼくたちは、一体どうやって陳腐な言葉を発さずに生きていけばいいのだろうか。日々、悶々と文章を認める。文章では、むしろニッチなことが歓迎されることもあるし、noteというプラットフォームはそういうものだという期待がある。だから、あまり何かに合わせるでもなく、自己療養のために書いている。
「他人と同じものを読んでいれば他人と同じ考え方しかできなくなる」と、『ノルウェイの森』で永沢さんが口にした。僕たちは日々見たいものを見て聞きたいこと聞いて、認識したい世界を認識している。ぼくたちが世界に出力するものは、自分というブラックボックスに入力したものに依存する。単純化をすれば、人間とは関数みたいなものだ。もちろん、項数はおびただしい数で、何が何に作用して出力するかについての完璧な理解はほとんど臨めない。複雑な関数。多分、数学科でも解けないだろうな。
とにかくぼくたちが複雑な関数であるとすれば、どのインプットがアウトプットに寄与するかがいかに複雑とはいえ、入力したものからしか出力は臨めないという仮説は浮かび上がる。とすれば、永沢さんの言うことはもっともだ。誰かと同じものを読んでいれば他人と同じ考え方しかできなくなる。誰かと同じ経験をしていれば他人と同じ生き方しかできなくなる。消費活動に関する意思決定が、自らを陳腐にするのだ。言葉や生き方でさえ。
ぼくは陳腐ではいたくないという個人的欲望が強い。とにかく陳腐でありたくないから、ぼくは誰かと違うものを読むし、誰かと同じ経験ばかりをしないようにしている。それが、何かを表現するものの一つのこだわりであり矜持であり、責任でもある。
あとは想像力だ。人はおもしろいくらい異なるのだから、ぼくたちは違いをできる限り丁寧に把握し補い合う能力を持って生まれてきた。きっと、違うものを読んでいる人間同士でもわかり合うことはできる。わかり合うことは難しくても、分かち合うことはできるかもしれない。
想像力というのも、なるべく独立して自立した意思決定とそれに伴う知識と経験に依存する。だからぼくは、他人と違うものを読む。自分が理解されない痛み、疼きが増すほど誰かに対して受容的であれる。全部否定せず、なるべく少なく肯定する。そうしてぼくは世界を成り立たせようという試みを持っている。そしてその試みに対する信念のような形をしたエネルギーは決して小さくない。たぶん、誰かと違うものを読んできたからだろう。そう信じ、今日もレイモンド・カーヴァーを手に取る。