人には人の、「辞書」がある
「うんうん、分かる分かる」
この言葉は、ほとんど暴力と同じだろうと思う。人は分かり合えない。圧倒的な真実。それでも分かり合える世界を希求して生きながらえることはできる。しかし、その道程は長く、険しい。シルクロードを開拓するかのように。あるいは、もっと際限がないように感じる荒野で無くした指輪を探すかのように。
この頃、共感性が一つのコンテンツになってきた。他者の痛みや喜びを分かち合ったり、それぞれに備わる共感性を利用したマーケティング手法が生まれたり、共感力が大黒柱的リーダーシップとは異なる側面から人々の個性に光を当て始めた。ほどなく、多様な特性がある種の価値として認められ始める。三月末、ひとつの桜の木でひとつが開花すると、続けて八部咲きまで走り抜けるように。
いい傾向だ。しかし、それほど容易く他者のことがわかってたまるか、とも思う。他者は地獄だ、とサルトルが言った。地獄のことを簡単に理解できると思うな。仮に理解が易しい他者がいたとしたら、それは地獄ではない。世界は地獄であり、他者こそ世界なのだ。他者は、複雑だ。揺るぎない。家系図のような揺るぎなさ。
「辞書」というものが存在する。それは、広辞苑や新明解とはまた違ったものだ。もっと個人的なもので、形而上的なもので、精神的なものである。広辞苑よりもちろん分厚い。ロシアよりも広大で、オホーツク海よりも深淵だ。「百人百様」とはよく言ったもので、百人から二人の組み合わせを無作為に選んでも、同じ辞書を持つ人は一人として存在しない。
「辞書」とは、先天的でも後天的でもある、というのが現状の見解だ。後天的であるというのは、例えば「哲学」という言葉ひとつとっても、個人的な辞書によって記載が異なる。その「辞書」は、その一人が「哲学」に対してどんな経験をしてきて、どんな思考を重ねてきたかに依存するからだ。た行の「哲学」のページを開くと、経験と思考の果てに解釈した「哲学」が記されているのだ。人によって、分量も、重要度も、論理構成も異なる。
先天的な「辞書」が、特に難しい。人間は、白紙の状態から経験を重ねて知識を形成していくのが経験主義の教えだった。しかし、「辞書」にはそれでは説明がつかない違和感がある。つまり、特定の経験以前から潜在的な「辞書」を持っている。それが「辞書」の先天的要素だ。
経験に対してどう解釈するか、を価値観と呼ぶ人がいる。受験に失敗して、「人生が終わった」と考えるのか「この失敗をバネにこれから頑張ろう」と思うのかは、価値観に依存する。しかし、経験を重ねる前から潜在的に価値観は存在するのではないか?前世や、世界から与えられた使命のように、価値観とは潜在的に与えられたものなのではないか。「価値」に対する観方は、まさに特性であり個性であり得る。経験以前の、運命的なものを感じ得ずにはいられない。
つまり、「分かる分かる」を本当に使いこなすには、想定以上に膨大な努力と犠牲が必要だということだ。部分的に。本当の意味で、「分かる」であるためには、相手の辞書の後天的な由来、つまり経験により導き出された価値観を配慮する必要がある。これだけでも、かなり骨が折れる作業だ。一人の人間のこれまでの全ての経験が貯蔵されている図書館で、しかも整理番号が打たれていないなから、特定の本を探す膨大な作業なのだから。
さらに、「先天的な辞書」への配慮も加える必要がある。図書館にある資料を読み込むだけでは足りず、図書館の建設された土地そのものに宿る魂や前世の記憶にまで足を踏み込む必要性だ。そこまでやってはじめて、相手の「辞書」が「分かる」、つまり輪郭が見えてくる程度のレベルまで歩みを進めることができるのだ。
こんな膨大で途方もない作業コストを払ってまで、「分かり合いたい」と思う人は多くないのかもしれない。それなら、「分かり合える関係性」というのは絵に描いた餅に過ぎないのかもしれない。
こうして、際限のない荒野に一人立たされる。絶望にこうべを垂らし、歩みを止める。深いため息の後、ふいに空を見上げる。綺麗な星がひとつ、ある。何かを伝えようと、他の星よりも、そして普段よりも強く光る星が。たぶん、希望を伝えたいのだろう。あたりを見渡す。やはり、際限はない。それでも、また歩き始める。公平さを希求することは、ひとつの自由だから。そこには、希望が潜在的にあるから。少なくとも、ぼくの「辞書」ではそうなっているから。