自分であるか、正しくあるか
「議論」の札を掲げた場や、その色を持った営みにおいて、しばしば方向感覚を失うことがある。東西南北だけでなく、無重力で上下左右もなくなったかのように、判断の拠り所が消えてしまうのだ。その時、それまで拠っていた「何か」は脚の壊れた椅子みたいに頼りがいに欠けて見える。
まず一つ、正しくありたいのだ。なるべく間違えたくない。失敗を重ねることがどれだけ学びになるかはエジソンの出どころのわからない格言で聞き飽きた。それでもしかし、なるべく客観的であまねく正しいと思われるような主題を持ちたいし、それを大きく掲げて小さく褒め称えられたいものだ。それくらいの人間味は持ち合わせている。
一方で、やはり自分自身もでありたいのだ。客観的な真理めいた意見は、あるいはあらゆる学問、もっというとあらゆる第一人者や歴代の偉人の集積に過ぎない。その叡智がどれだけ尊いものであるかは理解できるが、その意見には自分の人格が入り込む余地がないことにどこかため息をこぼしたくなる。正しそうな言葉を重ねるほど自分自身の存在はがらんどうに感じ、吹くと乾いた低音が響く。水を入れたペットボトルのように。
あるいは、主語や目的語が具体的にはイメージできない程度までスケールしてしまうと、自己の位置情報を見失うのかもしれない。現在地のわからない地図アプリみたいに、いくら眺めても自身の行く先は分かり得ない。できるだけ、あるともわからない自分らしさを色合いや温度に変換して滲ませたい。エゴだとしても、それによって生の実感を獲得し、吹けば高く鳴る器へと変容していきたいのだ。
思うに、これまでもそしてこれからも、ぼくは自分自身であることと正しくあることの重心を探り続けているのだろう。まるで皿回しをするみたいに、皿の中心からズレる度に気づいて修正するのだ。それた意識を呼吸に戻し続ける瞑想みたいに、少しずつ集中の能力を開発しながら。
世界には、とりわけ内面の世界においては、重力は存在しないのかもしれない。だから、自前の方位磁針を見出す必要がありそうだ。たったそれだけで、いくらか幸せになれそうに思える。