全部「分かりやすさ」のせいだ

 「分かりやすさ」がある種の正義になってきた。これ以上「分かりやすさ」がインフレするなら、社会は破綻するだろうな。財政破綻ではないから、「意味の破綻」とか「存在の破綻」とかそんな感じだろう。

 「分かる」の語源は「分ける」だとしばしば言われる。カブトムシを分かるためには、「カブトムシ」という名前をつけクワガタと区分する必要がある。名前が付けられ形が与えられたものは、たちまち数多の研究によって詳細が付されて行き、さらに分割は進む。カブトムシも、大カブトムシとか、ヘラクレスオオカブトとか、詳しくはないけれど分けられていく。いつしか、カブトムシのランキングなんて付けて、評価を並び替えて、良し悪しを判断して、それがまた分割していき、気がつけばなんのために分類していたかを忘れてしまって、でも摩擦がない世界で押した自転車みたいに惰性で走り続けて、そうして存在は破綻していく。

 「多様性」だってそうだ。誰もが口をそろえて唱える多様性だって、「多様性」という名前をつけることで、画一性と区分していく。「マイノリティ」と評価することで、マジョリティとの区別が進む。「発達障害」「うつ病」という診断によって、ラベルに入り込む人が増加する。意味を付すというは、確実に人を救う。一方で、少なからず犠牲者を出し得るのだ。何かを語るということは、誰かを傷つけることに他ならない。誰かが言ってた。誰だっけ。誰でもいいか。言葉や思想は、みんなのものだもんな。

 もうなんでもかんでも分けてどうにかするのをやめにしないかな。もとは、ぼくらは一つだった。全は一で、一は全だった。それを要素に分けて単純化してきた。そういう過渡期は必要だった。でも、今は単純化のために分けた要素が増えすぎて、またその要素がそれぞれの正義を主張しすぎて、うまく歯車が噛み合わなくなっているようにも見える。いろいろ経験した挙句自分のことがわからなくなった19歳みたいだ。自分なんて探さなくなって、そこにいるのに。もしかすると、世界も。

 分かりやすくするためのカテゴライズが、詳細になっていき、入り組み、分岐し、どこが入り口で出口かもわからなくなり、漏れもだぶりもある「もとの世界」とは違った複雑さを纏ってしまった。あるいは、特定の権力の意図によって、悪意をもった複雑さへ変化してしまっている。分業の功罪。専門家社会の功罪。

 世界の共通する目的はなんだろうか。理念はなんだろうか。使命は、意味はなんだろうか。人間の実存的な問題は、欲望まで立ち返る他なさそうだし、それより奥深くの世界は検証不可能な脆い領域だ。触れれば壊れてしまうような繊細さ。

 だから、欲望を丁寧に見つけていき実存的な問題に立ち向かうように、世界もまた世界自体の欲望から実存的な問題に立ち向かう必要があるだろう。それはおそらく、共通する目的になりうるようなぼくたちの希望だ。そのやり方は、過度に分割し続けることではないように思う。分断を自分たちでつくるのは、終わりにしないか。まずは、その意志が試されている。命をまるごと使った、純粋な意志が。

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狼だぬき
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