狂言『萩大名』と俳諧連歌
【スキ御礼】狂言『萩大名』の大名が詠んだ「萩」
狂言『萩大名』(あらすじは「狂言『萩大名』の大名が詠んだ「萩」」参照)に出てくる遠国の大名は、大名と言っても戦国時代のような武将ではなく、室町時代のそれは地域の地主程度の身分だったようです。
だから都へ出て来て、急に和歌を詠めと言われても、もともと素養もなかったのでしょう。
萩の庭の亭主とのやりとりでも、大名は無粋な事ばかり言って、お付きの太郎冠者にはその都度たしなめられて、最後には相手にもされなくなってしまいます。
そんな大名は、和歌を詠むセンスはなかったけれども、庭の亭主に言った「無粋な事」には俳諧連歌のような俳諧味が溢れています。
まずは、室町時代の俳諧連歌が成立するまでの流れを、和歌、連歌とを比較しながら専門書で確認してみます。
室町時代に入ると、宗祇によって第二の連歌集『新撰菟玖波集』が明応四年(1495年)に撰せられます。
それに呼応して、その四年後に俳諧連歌の集である『竹馬狂吟集』が、その約五十年後に『新撰犬菟玖波集』がまとめられています。
つまり、室町時代には連歌が高い文学性を持つようになり、それまで連歌の一分類であった「俳諧」が連歌から独立して「俳諧連歌」という分類ができたということになります。
その「俳諧連歌」の撰集である『竹馬狂吟集』について、次のように評されています。
狂言『萩大名』の面白さも、「風雅さを好んで下落させる面白味をねらっている」、という点では俳諧連歌と共通であるように思えます。
では、具体的に『萩大名』の大名が発する無粋な発言を見てみましょう。
①庭の白砂を有名な豊後砂と教わって、「さながら道明寺干飯を見る様」という。
②庭石を山の石だと教わって、「握り拳ほどのところを打ち欠いて火打ち石にしたらよかろう」という。
③庭の枝の出ている木を白梅だと教わって、「引き切って茶臼の引木にしよう」という。
④庭の木の紅い花を宮城野の萩だと教わって、「あの赤い花がこの白い砂の上へぱっと散ったところが、さながら赤飯を見る様な」という。
この太郎冠者または亭主と大名との話の掛け合いが、俳諧連歌の掛け合いとよく似ているのです。
「萩大名」の話の掛け合い①~④が、どれだけ「俳諧連歌」に通じるものがあるか、試みに俳諧連歌風に仕立ててみました。
実際の俳諧連歌を先に例に挙げますので、比較してご覧ください。
豊後名物庭の白砂
真白なる名の干飯の道明寺
庭の白砂は有名な豊後の白砂である。
ーーいかにも真っ白で、まるで有名な道明寺の干飯のようだ。
枝のつと出る庭の白梅
枝を切れ臼の引き木にせむがため
庭の白梅の枝がついと上に伸びている。
ーー梅の枝を切りなさい。茶臼の引木にするために。
花の零るる宮城野の萩
白砂の花は赤飯さながらに
宮城野の萩の花がこぼれている。
ーー萩の花が白砂の上にこぼれているさまは、まるで赤飯のようだ。
名の石を欠きとればよき火打かな
有名な庭石を欠いて取ったなら、 ちょうどおあつらえむきの火打ち石であろうよ。
大名と太郎冠者、亭主とのやりとりが、うまい具合に俳諧連歌の七五調にうまく収まるのです。七五調という形式だけではなく、話のやりとりがそのまま俳諧になっていることがよくわかります。
『萩大名』の大名殿は和歌には通じていなくて、太郎冠者は冷や汗をかきまくるのですが、俳諧連歌のセンスは一級だったのではないかと思うのです。
☆「月に柄を…」の句の作者で俳諧の創始者と言われる山崎宗鑑について、
明石 白(歴史ライター)さんが記事にされています。俳諧にも教養が必要だったことがわかります。
(岡田 耕)
*参考文献(引用のほか)
野々村戒三 安藤常次郎『狂言集成』能樂書林1974年
写真/岡田 耕
(横浜能楽堂)