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吉原の遊女「瀬川」が詠んだ俳句
吉原は高級な遊び場でした。
吉原を訪れる客は、武士や文化人が多く、遊女にはそういう身分の人の前に出ても恥ずかしくない教養が必要とされていたそうです。
遊女屋は、遊女の商品価値を高めるために、読み書きはもちろんのこと、書道、生け花、茶道、和歌・俳句、琴、三味線、囲碁・将棋にいたるまで、遊女に教育を受けさせていたといいます。
遊女の詠む俳句については、明治時代の文献にも書かれていました。
俳諧は、實に平民的文學にして、元祿以降世に盛んなりしからは無論の事、其以前とても、流行は寧ろ上流より下流に在りしなり。されば世に浅猿しき遊女輩にも、なかなかに俳諧の上手多く、一句以て人を感動せしむるものあり、今、左に之れを錄す。
遊女「瀬川」は、江戸時代、吉原松葉屋の遊女で、同名の遊女が、享保年間からから天明年間まで、9人いたといいます。
中でも二代目、四代目、五代目が有名で、特に四代目瀬川は、才色兼備だったそうで、遊芸はもちろん、茶の湯、和歌俳諧の嗜みがあったそうです。
NHK大河ドラマ「べらぼう」では、五代目瀬川が登場しています。
果して何代目なのかわかりませんが、「瀬川」が詠んだという俳句があります。
江戸吉原松葉屋の瀬川は、和歌を詠じ、又俳諧をよくす、遊客三文字屋何がしより紙鳶をおくり越したる返事の末に、
あげられて苦しき日あり紙鳶のぼり
句の前書きには、遊女瀬川が三文字屋の何某という者から凧を贈られたことに対して、返事の手紙の最後に書いたもの、と書かれています。
遊女は、馴染の客に、再訪を促したり、お金を無心するために、手紙をよく書いたそうです。
さて、この句はどういう解釈をすればよいのでしょうか。
まず、季語は「紙鳶(いかのぼり)」で、「凧(たこ)」のことです。
今では正月の遊びのイメージがありますが、もともとは春に行われたもので、春の季語です。
文字通り読めば、揚げられた凧が苦しい日々を送っている、というように取れますが、「凧」そのものが苦しいというのでは、なぜ苦しいのかわからないことになってしまい、不自然です。
ここでは、作者自身の心境を凧に仮託していると思うのが自然です。
または、「あげられて」は瀬川自身のことを直接表していて、その「あげられて」を、凧を揚げる、の「あげる」に掛けて、取り合わせとしているとも読めます。瀬川が「あげられて」苦しい、と言っているのです。
では、何に「あげられて」苦しいと言ったのでしょうか。
凧だから「風で空に」ということだけでしょうか。何かほかに含みがありそうです。
三つのことを想像しました。
一つ目は、仕事そのもののことです。
遊女の値段のことを「揚代」といいます。
また、客と遊女屋を仲介していた店を「揚屋」といいました。
「揚げる」は遊女の仕事そのものを指す言葉として使われていたようです。
二つ目は、何代目なのかはわかりませんが、花魁と呼ばれる高級遊女「瀬川」を襲名するまでにその身分が上げられたということです。
三つ目は、二つ目とも重なりますが、高級遊女ともなれば、遊女屋の一階で表通りに面した張見世という部屋にいることなく、二階の部屋にいたそうです。つまり二階に上げられていたのです。
句からは、
「あちき、「瀬川」になっても、まだまだ仕事がない日もあって苦しゅうおす。」
という声が聞こえてきそうです。
いろいろ想像しますが、句は、俳句会に出されたものではなく、瀬川から三文字屋の某という特定の人に宛てた手紙に添えられた挨拶句です。
当事者である三文字屋の某という男ならば、何か身に覚えがあって、句の含みがわかるのかもしれません。
句が本当に意図しているものは当事者にしかわかりません。
それでも句そのものは、機知に富んでいて、作品としては完成度は高いです。
俳諧に通じている客ならば、手紙にこんな気の利いた句が添えられていたら、よっしゃ、私が助けに行ってやろう、という気になってしまうかもしれません。
それもお返しの句を用意して。
引つ張れる糸まつすぐや紙鳶 耕
(岡田 耕)
*参考文献*
・瀬川 - Wikipedia
・『日用百科全書第拾壹 俳諧獨學』博文館 明治28年
・安藤優一郎『江戸の色町 遊女と吉原の歴史』カンゼン 2016年