頼山陽が見た「花の雨」(2)
【スキ御礼】
歳時記を旅する13〔桜〕後*上千本中の千本花の雨
西行が見た「花の雨」
秀吉が見た「花の雨」
芭蕉が見た「花の雨」
本居宣長が見た「花の雨」
頼山陽が見た「花の雨」(1)
前回母を連れて吉野を訪れて花に出逢えなかった頼山陽は、その8年後の文政十年(1827年)三月十八日、再び母を連れて吉野を訪れる。
今回は花に遅れてはならじと雨をついて出発し、二十日に吉野に着くと雨はようやく上がり、翌二十一日は晴れて満開の桜に会うことがことができた。
前回の八年前より十五日早く到着している。
母(静子)はこれを歌にしている。
母親の満足そうな歌である。
「雲もうらみも晴れにけり」には、前回の雨と今回の昨日までの雨の恨めしさがあったのだろう。
「いざと子の さそはざりけん」は、息子にこれまで連れて来てくれなかったことを嘆いているようだが、今回、玉のように美しい満開の吉野の桜に出会えたことの嬉しさの裏返しを言っているのだろうか。
ではなぜ山陽はこんなにしてまで母に吉野の桜を見せたかったのだろうか。
山陽の父、春水は儒学者で、広島藩に藩儒として招聘されて一家で安芸に暮らしていた。広島藩内に学問所を創立するなど藩儒としての功績をあげるが、前後の二十年間ほどは単身で江戸に勤務することなった。
山陽が二歳から二十二歳の間である。
留守がちな春水に代わって山陽を守り育てていたのは母の静子だった。
静子もまた学問のできる立派な婦人だったようで、山陽が五歳からは静子が読み書きを教えていたという。
山陽の子供時代のほとんどは、父は単身赴任で家にはおらず、もっぱら母の庇護のもとにあったのである。
そんな母への感謝の気持ちがあって、どうしても吉野の桜を母と共有したかったのだろう。
(岡田 耕)
*参考文献
有岡利幸『ものと人間の文化史137-2 桜Ⅱ』法政大学出版局 2007年
安藤英男『頼山陽選集1 頼山陽傳』近藤出版社 1982年